2011年6月9日木曜日

学ばぬ民族

 ドイツを始めとするヨーロッパ諸国が、次々と「段階的原発廃止」を国策として実施し始めた。大半が地震や津波とは無縁の国々だが、福島の惨事から「現代科学では制御不可能な事態が原発では起こりうる」ということを学び、事故後3ヶ月もたたぬうちに、こうした方針を打ち出した。

 対して当事国である日本はどうか。政府も東電も原発災害の真相隠しには熱心だが、エネルギー政策の未来には、これといって具体策が見えてこない。
 管首相が5/10の会見でエネルギー計画を白紙撤回し、今後再生可能エネルギーの開発に力を入れると述べたことは評価したいが、何をどうするかが一向に見えてこず、聞こえるのはかけ声だけだ。
 そうこうするうち、内閣不信任騒動勃発。首相の早期退陣が決定的となり、いざ大連立とやらを組んでさらなる保守的政権が誕生すれば、先の首相方針など、あっさりと彼方に消し飛んでしまうに違いない。


 それもこれも民意の違いである。二酸化炭素削減を錦の御旗にし、「原発回帰」の傾向にあったヨーロッパ諸国を、短期間で「段階的原発廃止」に動かしたのは民意、つまりは国民世論である。原発依存度が80%に迫るあの原発大国フランスでさえ、世論の77%が反原発に動いたという。
 これが当事国の日本では、反原発と原発擁護の比率はなぜか拮抗、つまりは50%弱だ。記憶が薄れると共に消極的原発容認論がじわじわと増えつつあり、おそらく来年の衆議院選挙では、「安全には厳格に配慮しつつ、当面は原発維持」などという、相も変わらぬ玉虫論理が日本中を席巻していることだろう。
 こうなれば投票所では、ありもしない「緑の党」とでも記入してくるか。
 まだ生まれてなかったが、太平洋戦争前や戦時中の世情も、おそらくこんな雰囲気だったのではないか。戦争はイヤだと口では言いつつも、(タダで近隣諸国の領土がもらえて、そこに移り住めるなら、けっこうオイシイかも…)という潜在的な自己利益誘導型思考が、日本を戦争へと押しやった。
 庶民は我が子に勝男だ勝子だとプロパガンダ的な名をつけてオカミに迎合し、侵略を後方から支援した。戦争を支えたのは決して軍部ではなく、結局は国民世論である。

 戦争が終わって60余年が過ぎたが、「敗戦」という天の裁きに学ぼうとしない動きが未だにあるように、今回の原発事故というまたとない天の啓示に少しも学ぼうとせず、(便利な暮らしができて懐が潤うなら、どこかで原発が動いててもいいかな…)という利益誘導型思考が、そこかしこに垣間見える。
「サミット主要国」などと気取ってみても、民の心は未成熟な後進国。災害からカシコク学んでいるのは他国の民だけ、という悲しい現実である。