2011年4月30日土曜日

車庫屋根補修佳境

 昨夜は夜更かしもせず、早々に床についた。明けて今日、私にしては早起きし、午前中から車庫屋根の補修に励む。
 手始めに、昨日取り外してあったポリカ波板にこびりついた汚れをていねいに落としていたら、それだけで1時間強もかかってしまった。全部で14枚もあるので、やむを得ない。
 まだ昼前だったが、空腹なので早めの昼食。ちょっと休んで、1時前から次なる作業工程であるスノコ板の補修にとりかかる。
 写真のように部分的に大きく空いている箇所を平均化し、雪下ろし作業でポリカ板に足を載せても割れないようにすることだ。既存のスノコ板の一部を取り外し、張り替えるので新規の材料は不要。


 全部終えたのが午後4時。これでようやく下地処理が完了である。
 いったん家に戻って遅めのお茶を飲む。天気予報では明日から雨なので、せめて壁際くらいは波板を張ってしまいたい。疲れた身体にムチ打って、再度の作業を試みた。

 波板の継ぎ目がスノコ板にピッタリ一致している必要があり、固定位置は非常にデリケート。しかも、継ぎ目には漏水止めのコーキング材を埋める必要がある。6時半までにようやく2列分を張り終える。
 残りはあと4列で、ほぼ先は見えたが、腰も腕もボロボロに疲れている。今日は珍しく弾き語りの練習も中止にし、早めに寝ることにする。

2011年4月29日金曜日

車庫屋根の補修開始

 久しぶりに仕事のない連休と決め込んでいたら、昨日夕方になって、先日見積りを出した仕事の依頼が飛込んだ。この仕事が、「CADではなく、手描きの味で図面を描く」というヤッカイなもの。いまや図面は99%がパソコンで描くCAD形式になっているが、思い出したように古き昔の手描きの依頼がやってくる。
 手描きの道具一式はとうに処分してしまったが、この種の突発的依頼に備え、CAD経由でいったん手描きに直し、再度デジタルデータに変換して納品、という手法を以前に確立してあり、今回もその応用でやる。
 一部不確定要素はあるが、資料もほぼそろったのでさっそくやろうと思っていたら、昼過ぎに薄日が差してきた。連休前半は雨の予報で、晴れるという後半にDIY作業だな、とひそかに思っていたが、再度天気予報を確かめると、今日明日の2日間は晴れの予報にいつの間にか変わっている。
 屋根補修は晴れが絶対条件なので、晴れているうちに進めたい。気温も10度を越え、暑すぎず寒すぎずのDIY日和だ。仕事はスライドすることに決め、午後から車庫屋根に昇って作業を始めた。


 写真が着工前の車庫屋根の状況で、道路方向に向いているポリカーボネート波板を、写真の右上、つまりは南側へ直角にふき直すのが主な作業だ。
 ついでに壁との接合部(写真の右端)の全面改修と、下地のスノコ板の間隔を調整して歩きやすくする補修もやる。

 全体はビスで止めてあるので、まずはそれを緩め、コーキング材で埋めてある壁との接合部をていねいにはがす。電動ドライバーでの作業が中心だが、ビスだけで300本以上はあるので、手間がかかる。
 今日のところは全体をはがして清掃し、スノコ板の一部を補修しただけで日が暮れた。全作業終了は3日間と見込んでいるが、だいたいそんなところだろう。明後日から雨の予報なので、明日中に波板の仮止めまで終わらせたいが、どうなりますか。

2011年4月28日木曜日

「譜面隠し」を作った

「譜面隠し」なるものを作った。他に適切な言葉が浮かばないが、譜面の下に置く楽譜カバーのようなものである。
 多くは紙製で、一回り大きい用紙を単純に置くタイプと、折り返して客席側に垂らすタイプとがある。あまり市販はされていないらしく、ネット検索でようやくひとつだけ特注で製作販売しているサイトを発見した。まだまだマイナーな音楽グッズのようだ。
 先日、近隣の百合が原地区センターでのリリーコンサートに出演した音楽仲間のレッド&ブラックさんは、ステージでは必ず譜面台に自作の譜面台隠し(折返しタイプ)を載せて演奏している。
 リーダーのKさんが自らデザインしたというロゴとマークが、赤と黒の2色でA3版の用紙にレイアウトされていて、小さなライブではあまり感じなかったが、それが大きなステージだとハッとするほど映える。
 当然のことながら、ライブにビジュアル面(見た目)は無視できない大きな要素のひとつである。


 私の場合は楽譜もA4版横置きの小型。基本的にソロ演奏なので、小さめのA4サイズ程度、しかも客席から見て垂れている部分だけあれば充分だった。

 急にこんなものを作ろうと思ったのは、今後不特定多数を対象とする場で歌う機会が増えそうだから。先の地域センターもそうだし、来月予定の地域商店街イベントもしかりだ。
 ライブハウスや介護施設の場合、聴き手は私の氏素性を事前に知っているが、通りすがりの不特定多数が聴き手の場合、どこの誰が何を歌おうとしているのか、何らかの形でアピールしたい。その手段として「譜面隠し」を使おうというのだ。


 ライブの案内状を作る要領で、横長の用紙に最低限の情報と写真をレイアウト。メインタイトルは熟慮のすえ、「叙情歌 弾語り」とした。
「ギターで弾き語る内外の叙情歌」のサブタイトルを小さく斜めに入れ、その右に氏名と簡単な住所も表示。叙情歌に相応しく和風字体を基本とし、色調は遠くから映えるよう赤と緑の補色を多用した。

 仕上がり寸法は297×155のA4変形。プリントアウト後に1ミリ厚のイラストボードにボンド接着し、上に16センチ間隔で2カ所穴を開けてヒモを通す。譜面台への固定は、このヒモをぐるっと巻きつけて裏で結ぶだけだ。
 昨日作った椅子式のマイクスタンド用譜面台と固定法は同じだが、マイクケーブルをとめるのも最近はヒモで、レトロだが融通性があり、安全確実な手法なのである。
 写真は立って歌う場合のセットだが、座って歌う場合のセットにもヒモの縛り方を変えるだけで、同様に使える。ラミ加工などはせず、濡れたり色あせたりしたときは、再度印刷して作り直すつもり。
 ふとした思いつきで作ってみたが、デビューは来月の路上イベントの場になりそう。はたして聴き手の目にはどう映るだろう。ちょっと楽しみ。

2011年4月27日水曜日

またひとつ前進

 昨日引き合いがあった仕事の進展はその後なく、天気もまずまずなので、予定通り墓参りに出かけた。休暇で家にいた妻も急きょ同乗。
 まずは区役所に行き、社会福祉協議会で今年度のボランティア保険の更新手続を済ませる。掛け捨て300円の最低額だが、弾き語りに限れば、これで1年間全国どこへ出向いても、活動中の事故が補償される。

 次に母の暮らす施設に行く。震災後の1ヶ月前にも行ったが、なるべく毎月顔を出すよう心掛けている。いつものように、行くとすぐに私の名前を呼んでくれた。すでに90歳を過ぎているが、願わくば命ある限り、我が子の顔と名前は覚えていて欲しい。
 前回、散髪を頼んでおいたので、さっぱりとした髪型に変身していた。着ている服もこざっぱりとした春らしい服に変わっている。本人は「タンスの奥から出した」と言っていたが、おそらくは姉が実家のタンスから持ち出し、届けてくれたのであろう。
 最後に、最も遠方(自宅から片道30キロほど)にある父の墓参りに行く。夕方4時を回っていたが、日が長くなったので霊園は充分に明るい。雨にも降られず、半年ぶりに墓参りを済ませる。都心や主要道路から遠く離れた山中にあるので、一冬を越しても墓はほとんど汚れていず、掃除は楽だった。
 全部で500はある同じ区画の墓参者は、わずか一人。連休前に墓参を済ませたかった大きな理由がこれ。

 帰路、一度も行ったことがない真駒内六花亭ホール店に寄ってお茶を飲む。私はワッフルと珈琲を、妻はイチゴパフェを頼んだ。随分斬新な建物と思い、食べた後に興味深くあちこ回ってみたら、出口付近で「北海道赤レンガ建築賞受賞作品」との銘板を発見する。どうりでね。

2011年4月26日火曜日

花よりセンベイ

 連休前に墓参りに行くつもりなので、交換したばかりの夏タイヤの空気圧調整に行った。いつも行く近所のセルフスタンドで会員証を見せ、コンプレッサを使わせてもらった。
 無料だが、操作は自分でやらなくてはならない。以前はこの種の作業もスタンド任せだったが、セルフスタンドを利用するようになってからは、すべて自分でやっている。

 ついでに近くのスーパーに寄り、お供え用の菓子と花を買う。霊園でも売っているが、高い。スーパーならほぼ半値。なぜか仏花が店頭になく、代替品として手頃な花束を398円で買った。


 明日行けるかどうかは仕事次第なので、枯らしてはならじとひとまず花瓶に入れ、居間の棚に飾ったら、妻がすかさず「もしかして、私に?」と問う。カーネーションが混じっていたので、「早めの母の日」と勘違いしたか。
 ちゃうちゃう、オヤジの墓前用だと言いつつ、そもそもワタシャあなたの夫であって、子ではないのだよ、母の日はないだろうて、と正論をぶつけると、それもそうネとすぐに納得した。

 実は独身時代や新婚時代には、結構花を買って妻にプレゼントしたもの。年月を重ね、子供の数が増すうち、妻は次第に「花よりセンベイ」という嗜好に変わり、私が花を買って帰ることもなくなった。
 しかし、少なくとも一晩は花の色香を楽しめるはず。妻宛の花のプレゼントは、いずれまた別の機会に考えましょうか。
_不要になったeMac本体の処分を検討中だが、昨年夏に1,500円で処分を引き受けてくれた会社が、すでにCRT一体型のパソコンは有料でも一切引き取っていないという。
 そうなるとメーカーに直接送ってリサイクルしてもらうか、他の店を探すかだ。マックでのリサイクル料は、このタイプだと3,000円で、埼玉にある某中古ショップでは、送るだけで無料で引き受けてくれるとか。この場合の送料が2,000円である。

 念のため、普段よく利用する市内の中古ショップに電話してみたら、別の中古パソコンかモニタを買ってくれれば、無料で引き取るという。2ヶ月前に同じ店でモニタを買ったばかりだが、それほど前ではすでに対象外とのこと。知っていれば当然お願いしていたので、惜しいことをした。
 しかし、その引き換えサービスは今後も継続するそうなので、別のパソコンを買う予定は当面ないが、しばし様子をみようかとも思う。図体がでかく、古いパソコンは、ただ持っているだけでも厄介者になりつつあるのだな、と思い知った。

2011年4月24日日曜日

ネックの反り修正

 先日のライブ酒場でのイベントで、マスターが普段は使わない「Kヤイリ YW-500P」という ドレットノート型のアコギを使って歌った。ギター専用マイクはなく、サウンドホールからケーブルが伸びていたから、おそらくは外付タイプのピックアップを使っていたのだろう。
(マスター多忙のため、未確認)
 このギターが抜群によく鳴る。調べてみたら、「YW-500P」は中古でも10万を軽く越す高級ギター。なるほどと合点したが、ピックアップを使ってこれほどの音が出るなら、自分のドレットノート型のモーリスも、手を加えれば使い勝手が増すのでは?と考えた。


 私の持つモーリスはただ古いだけで、(購入後38年)いわゆる廉価版ギター。それでもそれなりに鳴るので、日々の練習はもちろん、ライブでもたまに使う。しかし、ピックアップがなく、経年変化によって弦高が高くなって弾きにくい、という大きな欠点があった。
 測ってみると12フレッドで弦高が3.5ミリもある。まずはこれを3ミリ以下に下げたい。以前にも何度か調整を試みたが、あまりうまくいってなかった。
(2009.11にサドル調整で、4ミリの弦高を3.5ミリに下げている)

 弦高を下げる手段にはいろいろあるが、まずはネックの中心を通っているトラスロッドの調整である。ネックの上か下にある調整ナットを回せば、ネックの反りは修正できる。
 モーリスの場合はネック上端についている蓋を外すと、六角ナットが現れる。ここに付属の六角レンチを差し込み、時計回りに回せばネックが上に反って弦高が低くなり、その反対だと高くなる。
 いろいろ調べた結果、非常に分かりやすく解説されているサイトを見つけた。
 マニュアル通りに作業してみたが、弦は3-4弦をゆるめたほうが作業しやすい。38年も調整していないので、ナットが非常に固く、回すのに苦労した。45度だけようやく回して1時間ほど放置すると、弦高は3ミリまで下がっていた。
 手持ちのオベーションギターを調べると、12フレッドで弦高2.5ミリほど。もう少し下げようかとさらに回してみたが、固くてこれ以上は無理。3ミリはギリギリでセーフかと考え直し、あとは弦の交換時に5-6弦部のサドルを少し削ることで対処したい。

 修正後に試してみると、特にハイポジションでの弾き具合がかなり改善されていた。たかが0.5ミリの違いだが、一歩前進である。無闇にギターを買い増すつもりは毛頭なく、弾きこなす技術も持ち合わせていないので、今後も現状のギターのメンテナンスに励みたい。

2011年4月22日金曜日

路上スタイルで練習

 昨日依頼された「イベント路上ライブ」なるものに、すっかり気持ちが奪われてしまい、時間がそんなにないこともあって、さっそくあれこれ準備してイメージを固めている。
 グーグルマップで該当する商店街の様子を閲覧したが、レンガ敷きの特別な舗装が歩道に施してあり、こぎれいでしかも広い。路上ライブの場としては絶好かもしれない。

 先方の商店街には専用のサイトがあって、地域住民と一体化した活発な活動を展開している様子。今回のイベントは昨年から始まったばかりで2回目になるが、「ステージを設けてマイナーな演歌歌手を招き、お茶をにごす」という、一般の商店街イベントにありがちな企画とは少し違う方向性を感じた。


 イベント系ライブは得手ではないことを先方に率直に伝えたら、「菊地さんの得意な路線で、やりやすいように歌ってください」とも言われた。
 これまでイベント系ライブは、ストローク系のニギヤカな傾向が好まれると決め込んでいたが、もしかすると別の路線、つまりは私が得手とする叙情系路線でもやれるかも…、とだんだん思えてきた。何事も思い込みは禁物である。
 とりあえずはメジャー調の叙情歌を30曲ほど思いつくままに選曲し、PAも久しぶりに路上スタイルに変更して練習してみた。
 調べてみたら、PAを使った路上ライブはもう5年もやっていない。そもそも路上はPAナシでやるのが原則だが、叙情系で迫るつもりの今回に限っては、こだわりを捨てるのが得策。

 乾電池駆動だとギターとマイクの接続方式が最新のローランドCM-30(交流電源駆動)とはビミョーに異なり、調整にかなり手間取った。
 こんなこともあろうかと、普段はモニタースピーカーとして使っているヤマハVA-10の底に、マイクスタンド用のナットを強固に装着し直してあったが、思いがけずそれが役立ちそう。

2011年4月21日木曜日

イベント路上ライブ

 東電の夏の電力供給能力が、想定値と同じ5500万kWに引き上がったという。当初は確か4000万kWくらいの数値で、「このままだと大規模停電必須」と、ひたすら危機感を煽っていたが、その後、休んでいた火力発電所の再開、被災した火力発電所の復活などの理由でジワジワと増え、はては揚水発電所なるものを繰り入れたり、自家発電の余剰電力購入を見込んだりして、いつの間にか1500万kWも増えてしまった。
 たとえは悪いが、ないないといいつつ、次々と出てくる年寄りのヘソクリのようで、要するに原発なんぞなくとも、本当は最初からやれたのではないか?と勘ぐってしまう。

 今回、一気に供給電力量が増えた背景は、「週刊ポスト」がすっぱ抜いた以下の記事が発端ではないかと思われる。

「揚水発電をカウントすれば原発なしでも夏の電力間に合う」

「揚水発電」なる存在をこの記事で初めて知ったが、いろいろ工夫すればいくらでもやれるじゃないか、と感じたのは私だけではないだろう。
 この分だと、全国どの電力会社にもこの種の「隠し玉」があって、実は原発なしでもそれなりに電力は足りるが、何せ原発は事故さえ想定しなければ単価が最も安く、どんどん電気を使ってもらえばどんどんモーカり、電力会社はもちろん、政治献金やら天下り、各種原発関連企業、はては寄付という名で金が落ちてくる大学の研究室、広告という名でオコボレをちょうだいするマスコミに至るまで、幅広くオイシイ利権が関わってくるので、「電力が足りません!」「だから原発が必要なんです!」と、国民はずっとタブラカされてきたのではナカローカ?
(あくまで推測ですので、各自でご判断を)


「ホームページで見ました」と見知らぬ方から電話があり、札幌西区の商店街の者だが、春祭りのイベントで路上ライブをやっていただけないか?との打診である。
 イベント系のステージは過去に何度か経験があるが、基本的には苦手。しかし、「路上ライブ限定」という部分がちょっと気になった。聞けば、予算の都合でステージが作れず、PAもない。しかし、商店街を行く住民相手に、何らかのイベントを仕掛けたい。プロにこの種の依頼は無理なので、ホームページで路上ライブの経験があると知った私に声をかけてみたのだという。
 あれこれ話すうち、相手の誠実な話し振りに、次第に気持ちが動いた。

 路上ライブは過去12回の経験があるが、昨年は一度もやってなく、今年はどこかでぜひやりたい、と密かに考えていた矢先の依頼である。そもそも歌い手として、請われて歌うほど幸せなことがあろうか…。
 結局、お受けすることにした。これも何かの縁であろう。
 人の流れを考慮し、時間をおいて30分を2ステージやること。雨天時は空き店舗のシャッターを開放し、そこで歌うことなど、大枠が決まった。PAは手持ちの乾電池駆動タイプ一式を持参することにした。
 イベント系ライブは元来苦手だが、通りすがり相手だとまた趣きがことなる可能性がある。イベント系ライブや路上ライブで叙情歌を試してみたい、という願望がかねてからあり、機会をうかがっていたが、チャンス到来かもしれない。

2011年4月20日水曜日

元祖TomtomBox

 古いメールのiMac-G5への転送も無事に終わり、もう使わなくなったeMacをいよいよ処分するべく、メモリを抜いて中古ショップで売る算段をしたり、ハードディスクの完全消去の準備をするうち、eMacに残したままの古いゲームソフトのことがふと気になった。

 私が最初にパソコンらしきものを買ったのは1987年。8bit4MHzのMSXという機種で、まだWindowsのように統一されたOSはなく、機種毎に別々のシステムで動いていた時代だった。
 内蔵HDはなかったが、フロッピーディスクやキーボード、マウス、モデム、プリンタが使え、その気になればかなりの作業がやれた。3人の子供と私はこの機種でさまざまなパソコンの技を遊びながら覚えたもの。キーボードを使ってプログラムを打ち込み、簡単なゲーム作りもやった。
 当時はワープロやファミコンの全盛時代で、パソコン自体がまだ珍しく、3人の子供たちにはファミコンを与えず、「ゲームの裏側はこうなっとるのだ」と、頑固にオヤジの理屈を語っていたように思う。
_コンピューターは大学の卒論でも使ったので拒否感はなく、一番熱心に使っていたのは私かもしれない。1200bpsという化石のように遅いモデムを使い、パソコン通信(いまでいうネット掲示板のようなもの)も1980年代終わりからすでにやっていた。
 ゲーム作りにも打ち込み、当時あった「MSX-FAN」という専門誌に作品がかなり採用され、結構な小遣い稼ぎをしたものだ。


 そんなノウハウの蓄積をふまえ、自作のゲームや小説、CGや音楽を1枚のFD(フロッピーディスク)に詰め込んだ「パソコン同人誌」なるものをいきなり作った。
 1993年3月創刊で、告知は折よく「MSX-FAN」に採用になったゲーム紹介の余白でやったので、第1号からかなりの読者(確か100名くらい)がいた。通信配布形式で年4回ペースで発行。ネタ切れで6号で休刊したが、このときのFDは全てイメージファイル化し、古いeMacに保存してあった。
_MacOS9ではエミュレーターという変換ソフトで見られたが、それを現状のOS10.4でも何とか見るべく悪戦苦闘していたが、「openMSX」と「NekoLauncher openMSX」というエミュレーターソフトを見つけ出し、ようやくうまくいった。
 画像はその元祖TomtomBoxの1994年夏の最終号。その2年後に開いたホームページ版TomtomBoxと内容やビジュアル、インターフェイスが酷似している。メインロゴもほぼ同じデザインだ。
 当時は8個の「箱」が存在し、それぞれに作品が詰まっている仕掛けだったが、20年近くの時が過ぎたいまも、その基本システムに変更はない。

「Tomtom」は私の名前をもじったものだが、パソコン通信で当時使っていたハンドルネームが同じ理由から「TOMすけ」。その後、一級建築士事務所の登録名までも「TOM工房」に変更してしまい、仕事の取引先ではもっぱら「TOMさん」と呼ばれ、いまや仕事やパソコンには直接関係のない趣味の知人からも、「TOMすけさん」と呼ばれる日々である。

 その後この「TomtomBox」を経由し、小説や音楽、CGなど、数々の創作物が世に送り出され、いろいろな形で結実した。仕事の発展にも大きく寄与してくれた。
 すべてはこの「元祖TomtomBox」から始まった。時を経たいまでも、当時の読者とのつきあいが続いている。感慨深いですな、しみじみ。

2011年4月19日火曜日

続・手製水盛管

 ゴールデンウィークが間近となり、今年は作ってから11年になる車庫&物置屋根の大改修を連休中にやるべく、いろいろと準備し始めた。
 構想にあるのは、屋根の雨水の流れを入口正面側ではなく、真横の南側に変更すること。母屋に直接付属する車庫なので、雨水を母屋から速やかに分離するべく、これまでは母屋反対の通路正面側に雨水勾配をとってきた。
 しかし、雨天時には雨水が通路側に落ちるという弊害がある。対策としてつけた雨樋も、梁の腐食という問題にぶち当たって、いまは完全撤去した。

 いろいろ考えたが、単純に通路横の南側に雨水勾配をとり、冬の落雪対策としてつけている雪止めもとってしまえば、雨も雪も管理がより楽になるような気がしてきた。


 まずは屋根に昇って現状の把握である。屋根材として使っているポリカーボネート波板の性能は非常によく、傷みはほとんどないので、張り替えてそのまま使いたい。
 屋根梁の上に敷いてあるスノコ板の一部張り替えや、波板の不足分などをチェック。固定はこれまでの屋根梁からスノコ板に変わるが、止める短いビスも200本は必要であることが分かった。
 今日は手製の水盛り管で屋根の各点レベルを計測した。「水盛り管」はパスカルの原理を利用して水平レベルを測る道具で、市販もされているが、高いのでかなり前に自分で作った。
 材料はペットボトルと径5ミリの透明ビニールホース10m、壊れたスケールなど。ペットボトルの蓋に穴を開け、ボンド(又はコーキング材)で周囲を固めたが、ネットで調べると、熱帯魚用の水槽で使うパーツを使えば、もっと簡単にできるようだ。

 私の場合はレベル差を具体的な数値で知りたいので、ホースの端部はスケールに固定してあり、水を入れたペットボトルの高さもフックとひもで任意に調節できるよう工夫してある。
(水はペットボトル底に開けた穴から入れる)


 調査の結果、南東角は北東角よりも17ミリ低いことが判明。束基礎の下には杭が打ってあるが、軟弱地盤なので経年により沈下したか、最初からズレがあったと思われる。
 建物側はもともと30ミリ高く作ってあるので、波板の方向を変更しても、理論的にはうまく南側に雨水が落ちてくれるはず。

 作業工程を描いたスケッチに従い、夕方に必要な材料をホームセンターで調達してきた。一番面倒な作業は屋根波板と母屋壁波板との接点処理で、これが終われば下地のスノコ板の貼り方を修正しつつ、波板を張り替える単純作業だけ。延べ3日で終わるとみるが、どうなるか?

2011年4月16日土曜日

子供の港として

 夜遅くに首都圏で暮らす娘が友人の結婚式のため帰省した。折悪しく雪まじりの暴風雨が吹き荒れる悪天候。23時過ぎに札幌駅到着の連絡があり、最寄りのJR駅まで車で迎えに行った。
 ロクに話す暇もなく、今朝は午前中の結婚式出席のため、朝8時半には家を出たいという。暴風雨はまだ収まらず、気温は相変わらず2度前後と寒い。薄着の娘に駅まで歩かせるのは酷である。昨夜は遅くまで仕事をしていたが、たまに来る娘のためにと、目覚ましをセットして起き、再び最寄りの地下鉄駅まで車で送った。

 先日の息子の「ジンギスカン肉送って!」もそうだが、まだまだ老け込む年でもなく、子育ても無事に終わって、生活にも気持ちにも余裕がある。たまにやってくるこうした要請に従い、しばらくは子供たちの「港」「基地」としての役割を果たすべき時期なのだろう。
 短い時間に娘と大震災の被災地ボランティアについて話したが、行き先は福島県相馬市。放射能ダダ漏れで収束の先が見えない福島第二原発から、わずか35kmの至近距離をかすめつつ、東北自動車道を日帰りで物資を運んできたそうである。
 避難所を直接訪問はせず、相馬市役所に設けられたボランティア専用の窓口にまず連絡し、必要な物資の要望を事前に調べ、米や缶詰、乾電池、発泡酒など、すべて自分たちのお金で調達し、届けてきたそうだ。
 アルコール類は盲点のようだが、潜在的要望はあるらしい。被災地とはいえ、いや被災地だからこそ、少しばかりの息抜きがいま必要なのかもしれない。

 被災地の要望は日に日に変化しているようで、最新情報では主食関連ではなく、野菜ジュースの要望が強いとか。栄養バランスの不備を補えるからかもしれない。
 機会があれば、また行くようなことを娘は言っていた。「ガソリンの給油場所を含め、被災地に一切の負担をかけない」が大原則で、ヤル気さえあれば、ボランティアの働く場は、いくらでもあるようだ。しかし、音楽などの文化活動は、まだまだ早過ぎる印象である。

2011年4月15日金曜日

日没する国

 震災の事後処理をめぐる与野党の攻防が、国民不在、被災者不在の醜い様相を呈してきた。会議を連発するだけで強いリーダーシップが不在、具体策がまるで見えない与党も与党なら、ただ批判するだけで、原発社会の根源を作ったヨボヨボの長古老にオウカガイを立てないと何も判断できないナンジャク野党党首。
 どちらも視点はまるで国民側になく、見えるのは自己保身の党利党略のみである。

 見舞金すら満足に支給されずに、はや1ヶ月余。ようやく東電が一時金支給を決めたが、これとて放射能避難民限定で、大多数の地震津波難民には、まだ何も具体案が示されていない。こんな状況でよく暴動が起きないものだと感心する。


「首相を交代せよ」というのがどうやら野党の共通した主張のようだが、トップの首をすげ替えて、事態が劇的に好転するとはとても思えない。そもそも、与党には人材がいないのではないか。
「大連立を組んで野党から首相を」というのが野党の甘い期待と狙いのようにも見えるが、まだ衆議院では民主党が圧倒的多数で、与党がそんなことを許すはずもなく、そもそも自民党にこの難局を速やかに乗り切るほどの人材があるのだったら、一昨年の歴史的衆議院選挙敗退はなかっただろう。
 繰返しになるが、やはり日本国民には選択肢がないのである。

 こうなればいっそ即座に衆議院を解散し、選挙運動ナシの自粛型選挙でもやるしかないような気がしてくる。猫の目のようにコロコロ変わる最近の「民意」からすれば、見事与野党逆転となり、自公連立政権復活、というシナリオが濃厚である。
 だが、以前にも書いたように、向こう3年弱は参議院選挙はない。参議院の現状で自公は半数の121議席にはるか及ばない103議席である。衆参のネジレは相変わらず解消されず、民主党を中心とした野党は、ここぞとばかりに与党を封じ込めるに違いない。
 そうなると国会を円滑に進めるためには、衆議院選挙で自公が圧倒的多数の2/3を得るしかない。
 やってみないと分からないが、こんな混沌状況下では、自公で2/3はさすがに難しいのではないか。先の統一地方選でも自民党は決して圧勝したわけではなく、単に民主党が退潮しただけ、といった印象が強い。
 解散総選挙をしてみたはよいが、与野党が交代しただけで、国民と被災者が取り巻く状況に大きな変化はなく、国会は堂々巡り。すぐに世論(国民)は政治に不平不満をもらし始めるに違いない。

 こんな状況を作った根源は、昨年の参議院選挙における「消費税増税はイヤだから、民主党には投票しない」という国民の選択だった。これが容易には解決しないネジレを生み、一昨年の民主党圧勝の「民意」が、ほとんど無に化した。
 繰返しになるが、政治の主役は政治家ではなく、国民である。国民が賢明にならない限り、国は迷走を続け、やがて閉じてゆく。
「日出ずる国」とイニシエには言われたこの国だが、震災をひとつのきっかけにして、じょじょに「日没する国」として沈んでゆく気がしてならない。

2011年4月13日水曜日

ジンギスカン騒動

 九州で暮らす息子から昨夜メールがあり、週末に会社の同僚とジンギスカンをやりたいので、ラム肉を10人前宅配便で送って欲しい、とある。
「ジンギスカン」とは、ラム肉を使った焼き肉のことで、北海道では季節を問わず食べる定番料理。専用のラム肉はスーパーでいくらでも手に入るが、依頼があまりに急で、すぐに手配してもギリギリではないか。
 電話で確認すると、タレは持っている人がいて不要。専用の鍋は、なくても網か鉄板で代用する。費用はすべて負担するので、ラム肉だけ何とか頼む、とのことだった。

 夫の依頼は時に冷たく断られるが、子供からの頼み事には、基本的に妻はデレデレである。メールは私と妻へ同時送信だったが、妻は今日の帰宅時にすでに肉の塊を小脇に抱えてきた。
 聞くと、出社するとただちに、顔見知りの肉担当職員にラム肉の確保を頼んだらしい。(妻はスーパーのデリカ部勤務である)途中でクロネコヤマトにも寄り、夕方6時半までに持ち込めば、週末にはクール便で九州に届く事を確認したとか。さすがに力の入り方が違う。
 問題は肉を入れる箱だった。勤務先には手頃な発泡スチロール箱がなく、クロネコでも売っていない。そこでジンギスカン鍋を見繕いがてら、近隣のホームセンターまで車を出すことにした。

 大きなホームセンターなので、発泡スチロール箱はもちろん、薄い鉄板でできたUFO型の簡易ジンギスカン鍋もちゃんと置いてあった。合計で500円ほど。
 すぐに家に戻り、冷凍庫から肉を出してパッキング。全部で7キロ近くもあって、大きめを選んだはずの箱がギリギリ。梱包に苦心したが、パックを合体させるなどし、どうにか詰め込んだ。
 ジンギスカン鍋は同時梱包できなかったが、箱の外側に抱かせ、さらに外側をプチプチ緩衝材でくるんでからガムテープでしばる、という案を妻が出し、やってみるとピタリ収まった。クロネコに持ち込んで梱包の確認をとると、そのままですんなりOKがでた。まずは一件落着である。

 北海道人は狂ったように、このジンギスカン鍋を食べるが、私はそれほど好きではなく、食べても年に1-2度くらい。
 ただ、サッポロビール園のジンギスカン鍋はさすがに美味しい。以前にアメリカ人のホームスティを受け入れた際、「どこか行きたい場所は?」と尋ねると、迷わず「サッポロビール園のジンギスカン」。連れて行ったら、非常に喜ばれた。国際的にも知られているらしく、一度は食べてみる価値はある。
 震災による横並び自粛で、観光や飲食店業界を中心に北海道でもあちこちから悲鳴が上がっていて、すでに観光バス会社の自粛型倒産も出てしまった。
 業界もようやく事の重大さに気づき、昨日からススキノのネオンと札幌テレビ塔にも照明が復活し、活性化にむけての大々的なキャンペーンも始まった。実施が危ぶまれていた夏の風物詩、「YOSAKOIソーラン祭り」も、やることが決まったらしい。

 笛を吹いても果たして人々が踊るかどうかは分からない。しかし、普段通りに吹くべきでしょう。美味しいジンギスカン鍋を食べに、ぜひ北海道にお越しください。

2011年4月10日日曜日

情緒に訴える音楽

 午後から近隣の百合が原地区センターで「スプリング・リリーコンサート」なるものがあり、音楽仲間のレッド&ブラックさんが出演するので、一人で見に行った。(妻は仕事で不参加)
 出演は3組で、いずれもグループでの楽器演奏。レッド&ブラックさんはトップバッターだったが、実はレッド&ブラックさんを地域センターに紹介したのは私。昨年、別のカフェライブで初めてお会いし、その世界が地区センターに向いていると直感し、登録書類を持参して手渡した。

 この地区センターでは、昨年3回歌わせていただいた。新規登録には経歴書の提出を始め、簡単な審査がある。歌いたければ誰でも歌える、というシステムにはなっていない。


 会場は開始時点で200席がほぼ満席で、開演後にも客足が絶えず、さらに40席前後を追加したほど。このような世相なので、みな情緒的な音楽を求めている印象がした。
 レッド&ブラックのお二人には長い演奏キャリアがあり、叙情系を中心とした全9曲を無難にこなした。構成にもメリハリがあって、飽きさせない工夫をこらしていた。
 2番手は6名のメンバーで構成されたギターアンサンブル。エレクトーンやアコーディオンが時折加わったり、聴き手が振付けで参加する曲を入れたり、あるいは演奏しながら一部メンバーが会場席を歩いたりと、やはり飽きさせない工夫をこらしていた。
 全員が音楽学校の講師で構成されていて、演奏技術には確かなものがあった。メンバーが特注の赤いブルガリア民族風衣装で統一されていたのも好印象。衣装もライブの大事な構成要素のひとつということだ。
 唯一の瑕は、「誰にだってお誕生日」という、聴き手参加型の歌。内容がどうみても子供むきで、会場の大半を占める中高年には戸惑いが見られた。

 3番手は総勢12名の会社系ブラスバンド。こちらも実績のあるグループで安定した音を創っていたが、全8曲中にアニメソングが3曲もあり、場にやや馴染まなかったきらいがある。休憩なしで45分という演奏時間も、客層とラストという演奏順からして、少し長過ぎた印象。
 ライブは単に技術、力量だけではなく、選曲や曲順も含めた全体構成が大事であることを再認識した。
 帰路、ようやく投票を済ませる。名簿をみたら、あれこれ言っていた妻もすでに投票済みとなっていた。
 これを書いている深夜には大勢が決したが、「原発」はあまり票に影響しなかったようで、不安な世情のなか、大半が消極的な現状維持を選択したらしい。この調子だと来年あたりに実施される衆議院選挙も、代り映えしない保守的な結果になる可能性が高い。
 以前にも何度か書いたが、「結局日本人は変わらない、変わり得ない」ということか。多くの戦争をやすやすと許した背景も、責任はオカミだけでは決してなく、結局はその国民性にあると思うのだが。

2011年4月9日土曜日

明日は投票に行く

 仕事が一段落したので、雪解けの進んだ自宅東側堤防周辺の散歩コースを半年ぶりに回った。手稲連峰に没する直前の夕陽が川面に赤く反射し、目にしみるようだった。
 写真左端で夕陽と重なる三角屋根の家が自宅兼事務所だが、川がこのように非常に近く、水害や津波に対する不安がある反面、災害時に水には不自由しないだろうな、とも思う。

 テレビからの情報だと、川が近い被災地では、洗濯やトイレ洗浄水に川の水を汲んで役立てているという。長い丈夫なロープとバケツがあれば作業はたやすい。
 この川には魚が多数生息し、水鳥の格好の餌場ともなっている。ゴミをとって煮沸すれば、調理にも使える可能性が高い。そんな災害は起こって欲しくはないが、頭で想像可能なことは、現実にも起こりうるということで、だからあの科学の粋を集めたスペースシャトルも墜落したし、原発も爆発した。
 そうした発想が原発の企画設計時に少しでもあれば、終末模様の大災害は起きなかっただろう。


 妻が明日の選挙に行くべきか否か、迷っている。結婚以来の夫婦の選挙投票率は、実は私よりも妻のほうが高い。以前にもふれたが、私が「行ったり行かなかったり、行かなかったり」なのに対し、妻は「行ったり行かなかったり、やっぱり行ったり」といった具合で、元来が真面目な性分なので、(オイラは政治には依存しないのさ、ふっふ…)などと、やや人生をハスに構えている私とは少し行動が違う。
 夫婦でも互いの生き方には基本的に干渉しないので、まあ好きにすればいいよ、としか言えないが、今回は私は投票に行く。選択基準はズバリ、「原発」だ。
「投票に行かないヤツは、政治に関して語るな!」とよく言われる。正論だと思うので、これまでブログでも政治に関しては、ほとんどふれてこなかった。しかし、なぜか大震災が起きる直前に、まるで虫が知らせたかのように、このブログで政治について語ってしまった。
 大震災以降は、まるで堰を切ったように政治やそれに付随する日本人の生き方について語り続けているのはご承知の通り。こうなると、さすがに「選挙はシリマセン」とはいかない。それが大人な社会人の責任ある姿で、そうでないとここで語る言葉にも説得力がない。

 大震災以来、ブログのベクトルが外向きへと大きく変化したことになるが、不思議なことに大震災以来のブログ訪問カウントは30%以上も増えている。その評価はともかくとして、しばらくはこの方向性で進んでみようと思う。
 デザイナーはデザインで、歌い手は歌で、そして書き手は文章で率直に自己を語り、表現すべきだろう。それが新しい日本の道筋を切り拓くことを信じて。

2011年4月8日金曜日

包丁代りにハサミ

 年と共にだんだん脂っこいものが苦手になり、昼食によく食べる即席ラーメンも、好みはあっさり味のマルちゃん(東洋水産)塩ラーメンが主体。しかし毎日だとさすがに飽きるので、焼そばやザルそば、はたまた冷凍ウドンやカップ麺を随時取り混ぜ、工夫している。

 最近、そのパターンに新顔が登場した。北海道では馴染みの薄いインスタントのタンメンである。その名も「鹿児島タンメン亭/塩とんこつ味」。


 見つけたのは週末だけ開く近所のディスカウントスーパー。街の専門店ではタンメンをよく食べるが、即席麺では初めて見る。恐る恐る1袋(2食入)だけ試しに買ってみたが、これが予想を越える美味。
 写真のように一般的な四角い袋ではなく、乾ソバのように、縦長の袋に入っていて、麺も縮れていない直線形。どちらかというと素麺や冷や麦の体裁に似ている。

 タンメンなのでいっしょにキャベツやホウレンソウ、ネギなどの野菜を投入して煮るが、個人的にはキャベツは必須。
 これらの野菜を、包丁ではなく、100円ショップダイソーで入手した台所専用のハサミを使って切る。干しエビと胡椒を入れて完成。とんこつ味といいつつ、あっさり味の中高年むきなのだ。
 普段から包丁を使わずにハサミでよく調理をするが、マナ板不要で洗う手間が省け、しかもスピーディ。サバイバル生活にもむいている。
 自分の専売特許かと思っていたら、NHK盛岡放送局のサイトにある「被災人の知恵」というコーナーで、同様の簡易調理法が掲載されていた。
 ハサミとナントカは、使いようで切れるのだ。

2011年4月5日火曜日

電気代がまた減った

 毎月上旬に電気代の検針がくるが、今日の検針票を見ると、月使用量は250kWh。前月分280kWhから30kWh減っているのは日が長くなったことと、暖かくなったことから当然として、注目すべきは前年同月と比べた増減量。
 こちらは前年分から26kWhも減っていて、つまりは1年で10%の節電に成功したということだ。めでたし。
 一般家庭の月平均電気使用量の最新データをずっと探していたが、ようやく見つけた。これによると、2007年の標準家庭年間電気使用量は約5,607kWhで、月平均では467kWh。
(出典:エネルギー経済統計要覧2009年版
 震災直後に記したブログでも同様の比較を試みたが、そのとき見つけたデータが1996年版の古いもの。電気使用量は年毎に増大を続けているから、いまはもっと大きいはず、と思っていたが、予想をはるかに越える量だった。

 前回同様、我が家の最新データ(2010年分)と比較すると、年間電気使用量3,095kWh(月平均258kWh)で、平均値の55%だった。これに従い、前回記した関連項目を再び修正。全く忙しい話である。


 今回の大震災は、今後の日本人の生き方を問う重要な位置づけとなる、とあちこちでササヤかれ始めた。つまり、「原発を拒否して、数十年前のような少し不便でも安全な生活に戻るか」、あるいは「リスクを承知のうえで、原発を基盤にした際限なき利便と発展を追求しつづけるか」という二者選択である。

 このブログタイトルでもすでに宣言しているように、10年以上も前から「縄文的生活」を目指し、日々実践もしている。従って、震災後の世の中がどちらに動こうとも、いまの自分の生き方をなぞり続けるだけで、特に軌道修正する気はない。
(蛇足だが、現状の災いも喉元を過ぎてしまえば、多くの人々は何事もなかったように、再び利便性を際限なく求め始める気がしてならない。たどり着く場所は希望も未来もない破滅世界であるが、人間とは根源的にそういう存在だと思う)
原発反対を声高に唱えるなら、原発分の電気を使うな!」という主旨のコメントを最近のネット掲示板で見つけた。この論理は一見無茶なようだが、かなり理にかなっていて説得力がある。原発に依存している分の電力を社会全体が恒久的に使わなくなれば、日本中に50数基ある原発をすべて止めることが可能になる。
 調べてみたら、日本の電力量で原子力の占める割合は24%。(2008年統計)同じ年のフランスの80%弱という飛び抜けた数値と比較しても、まだ充分にやり直せる数値ではないか。
 少なくとも原発反対を主張する政治家、文化人、学者、マスコミ、そして一般ブロガーは、まず原発依存分の電気を自ら使わないことを明確にデータで提示するべきだ。口先だけのキレイ事に騙されてはならない。

 ヒンシュク覚悟で書くが、我が家の年間電気使用比率55%は、いますぐ北海道の原発が止まっても、何ら影響なく過ごせる数値である。
(北海道電力の原発依存度は日本の平均値よりも高く、約40%。したがって、北海道で原発に依存しないで暮らすには、差引で平均値の60%以下に電気使用量を抑える必要がある)

 沖縄電力のように、原発依存度が0%の地域や、中国電力のように原発依存度がわずか8%という地域もある。(Wikipedia「原子力発電」より)要は国民の覚悟と政府のリーダーシップ次第である。
 大震災の後始末が一段落したあとに行われるであろう衆議院選挙は、この原発の是非とそれに伴う国民自身の生き方そのものが争点になることだろう。それまでに各自が自らの生き方を冷静に問い直すことにしましょうか。

2011年4月4日月曜日

カエル茶碗

 東日本大震災を挟んで、続けざまに5個の茶碗やグラスが欠けた。妻と私の飯茶碗、私のマグカップ、盛り合わせ皿、ウィスキーグラスで、いつかは割れるのが定めだが、こうも続けざまだと気味が悪くなってしまう。

 大地震の前兆として、その地域のFM放送の聞こえが極端に良くなる、という情報があり、今回も地震のひと月ほど前から、FM岩手の放送が相当遠くでも聞こえたそうである。科学的裏付けはまだないらしいが、ひょっとすると地磁気の影響なのか。
「大地震の直前には、セトモノが割れる」という事象も関連があるのかもしれない。
 割れた食器類はやむなく大半は捨ててしまったが、お気に入りだった私のマグカップだけは欠けた場所が取手の反対側で、飲むのに大きな支障がなく、いまだに使っている。
 欠けに気づいたのは、夜に洗って乾いた分を翌日に棚にしまうとき。原則として食器洗いは私の担当なので、たぶん私の不注意なのだろう。それにしても…。


 毎日使う飯茶碗は、ほどなくして妻が代わりの品を買ってきた。妻の分は年相応に落ち着いたデザインだったが、私の分は写真のようなカエル柄。自他共に許すカエル狂なので、基本的にカエルグッズはうれしいのだが、それにしてもカンレキオヤジには、ちぃと可愛いすぎないか?

 糸底にまでカエルが笑っている念の入れようだが、容量がかなり小さく、どうもみても子供用。最初は抵抗があったが、箸置きにも妻が買ってきたカエルグッズを使っていることもあり、まあいいかと使い続けるうち、不思議になじんでしまった。
 飯は夕食時に軽く一杯食べるだけなので、子供用でも少し多めに盛れば、足りることは足りる。それでも普通に働いて普通に遊ぶ、フツーの生活を続けている。住んでいる家や乗っている車と同じく、住人の燃費も非常によいのでアル。

2011年4月3日日曜日

車椅子を作った

 といっても、3D-CGデータの話である。進行中の仕事でどうしても必要になってのことだったが、いざ始めると夢中になってしまう。都合3時間も作業し、ようやく完成。
 車輪だけは以前に自作した自転車のデータを転用したが、他は写真や車椅子の法的基準の図面を元に、詳細に拾った。まあまあの出来映えである。満足。

 画像を出力してから肘あてを作り忘れたことに気づいたが、夜も更けたので、残りは明日仕上げることにしよう。


 今日はそのほか、7物件のうちの2番目に面倒な建物のデータ作成もやった。世間は休日だが、仕事のあるときは休日も何もない。それが自由業の定めである。

 最近、小さめの自動車の要望が多いので、物はついでと、軽自動車のデータをひとつだけダウンロードした。「ソニカ」という車種で、1台1,575円で購入。その道のプロが作成したものなので、こちらは精緻極まりない。価格だけの価値は当然ある。いや、1,575円なら安いのではないか。

2011年4月2日土曜日

娘が被災地へ

 新聞に掲載された温泉の切り抜き記事が手元にある。日付を見ると1999年、もう12年も前だ。原野の片隅にポツリと建つひなびた温泉で、自宅から近いのでいつか行こう行こうと思いつつ、なかなか実現しなかった。
 珍しく妻が週末に連休である。「どこか日帰り温泉にでも…」と言うので、近場ならよかろうと、ようやく行く気になった。
「中小屋温泉」という名のその温泉宿、歴史はかなりのもので、創業は100年以上も前。すでに経営者は4代目だとか。
 我が家からは車でちょうど30分。周囲にはナンニモないが、料金は日帰りだと500円。冷泉だが、皮膚病と神経衰弱に効用があるという。皮膚病はともかく、心の病に効く温泉があるとは知らなかった。心迷える現代にピッタリの温泉ではないか。


 14時ちょうどに着いたが、広々とした浴室にはダ〜レもいず、逆に入りにくい雰囲気。週末の午後でこんな感じとは、ここにも「自粛」の波をヒタヒタと感じる。
 30分ゆっくりと浸かって、あがろうと思ったころに、ようやく3人の客がまとまって入ってきた。それでもガラガラ状態であることに変わりはない。

 最初なのでよく分からず、200円払って和室の休憩所に入ったが、無料のロビーがあるので余程混んでいない限り、入浴料だけ払って入るのが得策。
 安いだけあってタオルやシャンプーは置いてなく、脱衣所にはドライヤーもない。石けんはあるが、数が極端に少ないので、こちらも持参するのが無難かもしれない。掃除は行き届いているので、純粋に温泉に浸かりたい人にはお勧めである。


 首都圏に住む娘からメールがあり、明日被災地に支援物資を届けに行く、元気でやっているから心配しないで、という電報のような内容である。
 実は娘は昨年から、とあるボランティア組織で活動している。昨年は東ティモール(インドネシアの東にある新興国)に10日間、支援に行った。
 東ティモールは独立直後の混乱から、 政府による十分な行政サービスが行き届かず、国際ボランティア組織が活発に支援活動をしている。娘もその一端を担ったわけだが、所属する会社もそんな社員を積極的にサポートしてくれて、ちゃんと有給休暇をくれたのだとか。
 まだ政情が安定せず、命の危険もある地域だが、自分で決めた道なので、親としては理解して見守るしかない。
 今回もまだ危険の残る地にあえて飛込むわけで、とりあえず義援金とブログでの能書きという形でしか行動できない父親にとって、我が子が現地に直接行って具体的な支援活動をしてくれるという事実は、まるで我が分身が被災地に飛んでいくようで、非常にうれしい。

 娘がなぜボランティアを始めたのか、分かるようで、分からない。何かしらのきっかけと心情の変化があったのかもしれない。
 娘は私が30代後半からさまざまなボランティア活動をやっていることを、家族として同時体験している。「だからアナタもやりなさい」と、我が子に一度も強いたことはない。私にとってボランティア活動は、あくまで趣味道楽、好奇心の延長である。
 しかし、そんな親の姿を見て心のどこかで共感し、意識下で見習ってくれたのだとしたら、人生冥利につきることだ。「生きることは伝えること」なのだと私は思う。