2011年10月31日月曜日

宙を漂うタマシイ

 仕事のスケジュールが詰まったり、何かの行事で早朝の起床を強いられたときなど、夕方あたりに猛烈な睡魔に襲われることがある。幸い、2階仕事部屋の隣には以前に息子が使っていた部屋があり、予備のベットが常時置いてある。
 ベットの上には、これまた常時毛布かタオルケットの準備が。つまり、「眠くなったらいつでも寝られる」という環境が整っているのだ。

 同じように、仕事部屋と同一空間の部屋の一隅には、これまた「思い立ったらいつでも歌える」ように、PAとマイクセット一式が準備してある。
 洋裁を仕事や趣味にしている方が、自宅の一室に常時ミシンや洋裁道具一式を出しっぱなしにしておき、「思い立ったらいつでも洋裁」という環境を整えているケースをたまに見るが、「眠い時に寝る」「イメージが湧いたら直ちに作業」という環境を整えておくのは、快適な生活をすすめるうえでの大事な要件かもしれない。


 で、その仮眠の話である。猛烈に眠いので、横になるとすぐに寝ついてしまい、その眠りは深い。眠るうちに陽が陰り、あたりが暗くなってしまうことも少なくない。
 小一時間眠るとだいたいは目覚めるが、この時、あたりは薄暗くなっていて、しかも眠っている場所がいつもとは違う。するといったいどうなるか。「自分の存在が一瞬消える」という、不可思議な現象がよく起きる。

 自分には名前があり、決まった屋号で長く続けている仕事もあり、家族もいる。世間一般のもろもろのシガラミに縛られている。その全部をひっくるめて自己のアイデンティティが形成されているのが普通のオトナだが、その一切が一瞬だが消える。「私は誰?ここはどこ?」といった感覚にしばし支配される。
 そんなバカな…、と妻に初めてこのことを打ち明けたとき、笑われた。私だけの特殊な現象かもしれない。
 しばらくあたりを見回してようやく、自分はいったい何者であったかを思い出す。それまでの時間はおそらく数十秒に過ぎないが、不安な感情はあまりなく、自分が宇宙のどこかに突き抜けたタマシイの塊になり、宙を漂ってるようなフワフワした感じである。
 幽体離脱という言葉があるが、それに近い感覚かもしれない。そんなとき、自分の魂は宇宙からやってきたのだな…、と妙に確信してしまう。
「我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこへ行くのか」と、かのゴーギャンは絵で問いかけたが、その答えの片鱗が、もしかしてここにあるのかもしれない。

2011年10月30日日曜日

YouTube道楽

 2年半ほど前にYouTubeのアカウントを登録し、当初は張り切ってオリジナル曲を続けざまにアップしてきた。しかし、期待していたほど再生回数や評価数は増えず、意欲も減退してしばしの中断。
 その後思い直してカバー曲も混ぜてみると、さすがにこちらは強い。再生回数に限れば、オリジナル曲をはるかに凌ぐ。数えてみたら、全19曲のうち、オリジナル7曲、カバー曲12曲という内訳だった。
 高評価数の合計はオリジナル4ポイント、カバー曲7ポイントで、比率からすればどちらも同じようなもの。歌い手として突出した何かがあるわけでなく、あくまで趣味道楽の範囲に収まる活動と言えよう。


 最近では洋楽も好んでアップしていて、ビートルズから始まり、クラシック、カンツォーネなどジャンルも雑多。
 こんな中で抜群の再生回数を誇るのが、およそ1年前にアップしたビートルズの「オブラディオブラダ」。曲そのものがメジャーなこともあるが、オリジナルの日本語歌詞で歌う、というユニークさが注目されたか、一時期「YouTubeおすすめ動画」にも初めて選ばれた。再生回数は日平均で10前後で、右肩上がりでいまも上昇中だ。

 これに迫る勢いなのが、つい1ヶ月前にアップしたばかりの「別れのうた(坂庭省悟)」。そうメジャーな曲ではないが、再生回数がすでに日平均で10に迫る勢い。その理由が実ははっきりしない。
 気になって直近2週間のユーザ層を分析してみたら、上のように男性女性で極端に隔たった結果となった。男性が65歳以上と25~44歳を中心に、そして女性が18~34歳に圧倒的支持されている。
 曲の内容からして男性65歳以上に好まれるのは分かるとしても、他の中高年層にほとんど聴かれていないのは釈然としない。子か孫の世代である若年層の支持も同じく理解不能で、いったい何が起きているのか?こんな傾向がはたして今後も続くのかしばし注目し、経過を見守りたい。
 ちなみに、YouTubeは聴くだけなら誰でも聴けるが、評価はアカウントを所得しないと駄目。自分で自分の曲に高評価をつけることもできる。(一度試して確認済み。あとで取り消しましたが)ただし、アクセス数も評価も1アカウント1回限りである。

 私の場合、自分はもちろん、知人や身内に高評価を依頼するなどのズルは一切していない。評価自体がかなりアバウトで、(こんな名曲にナゼに悪い評価?)と思われるヒステリックな評価も多々あるので、参考程度に考えるのが賢明だ。

2011年10月29日土曜日

業務縮小案内

 70歳近い建築家の方が長年都心で運営していた設計事務所を閉鎖縮小し、職員も解雇。拠点を自宅に移した、との案内ハガキが先日届いた。「建築活動45年」と文面にあり、私が知り合ったのが15年ほど前のことだから、それは長い活動歴である。
 最盛期には3人の従業員を使っていたが、一人減り二人減りし、やがて私への仕事の依頼も途切れがちになり、久しぶりに届いたのがこうした業務縮小案内である。
「閉鎖」とは書かれていないので、あくまで業務縮小。細々とでも、設計事務所の事業は継続するようだ。

 どのような形態であれ、事業を継続し続けるのは至難の業だが、受注量が減ってきた場合、対応策としてまずとるのが積極策である営業拡大。時には異業種への参入で事業拡大を図ることもある。
 これが手詰まりに陥った場合、消極策だが非常に有効なのが経費節減対策(リストラ)で、従業員を使っている場合なら解雇するのが最も有効。次なる策は、事業の基点となる事務所を自宅の一角に移してしまうことだ。
 私は29年前の独立当初から、妻以外の従業員ナシ、事務所はずっと自宅内という究極のリストラ策をとってきたので、大きく儲けることもないが、大きく損なうこともない。隕石衝突後の地球で生き延びた小動物のように、ひっそり身軽に細々と生き延びてきた。

 はてさて、かの建築家の先輩は、今後奥様との長い自宅での生活に、どんな思いで立ち向かうのであろうか。妻と向き合うのっぴきならない生活の中、長い時間をかけて互いの折り合いのつけ方を自ら学んできた身にとっては、案内文の行間に漂う一抹の寂しさが、少しばかり気がかりなのであった。

2011年10月28日金曜日

生きるために費やす

 ほんの少し前までの日本社会は、生きること暮らすことのために起きている大半の時間を費やし、「余暇」などという概念はなかったと思う。少なくとも私が小学生だった50年くらい前の北海道ではそうだったし、東京で生まれ育った同世代の妻も似たような生活だったと聞く。
 私が12歳までを過ごした田舎の地では「専業主婦」という言葉自体が存在せず、結婚した男女は等しく何かしらの勤労をしていて、女はその片手間に家事をこなし、足りない部分は子供たちが補っていた。
 中学生になった1960年代頃からサラリーマンなる概念が発生し、電気釜や洗濯機などの家電製品が登場し、「働かないお母さん」つまりは専業主婦なるものが存在し始めたように思う。同時に子供たちは家事を手伝うことをやめ、塾や習い事に勤しみ始めた。
 生きるための時間をそう多く使わずに済むようになり、「余暇」とか「レジャー」という暇つぶしや息抜きの時間を意味する言葉が発生したのも、おそらくこの時期から。ある意味での不幸な時代の始まりだ。


 余暇やレジャーが明日への活力となる息抜きであるうちはよいが、単なる暇つぶしに成り下がった場合、人は必ずしも幸せにはなれない。
 昭和30年代以前から原始時代までの人々は、おそらく食べるために人生の大半の時間を費やしていたはずだが、それは逆に人間として、とても幸せなことだったのではないか。

 程度問題だが、「今日は何をやって過ごそう…」と思案に暮れるより、次から次へと生きるため、食べるために、やるべきことが目の前に山積していたほうが精神衛生上も健康上もいいに決まっている。
 便利さの追求はほどほどにし、少しの不便さは身体や頭を使うことで補ってやれば、無用の金や資源、そしてエネルギーも消費せず、やるべきこともほどほどに死ぬまであり、幸せな一生を送ることが叶うのではないか。齢62歳を越えたいま、そんなことを考える。

2011年10月27日木曜日

時に応じて弾き分ける

 先日のチカチカパフォーマンスを最後まで見届けた妻から「けっこうギターが上手になってきたわね」と、終了後におほめの言葉をいただく。
 いつも言っているように、私にとってのギターは歌の調子をとるための単なる添え物。「ないよりマシ」程度の位置づけに過ぎないが、私の弾き語りにずっと立ち会っている妻からそう言われると、まんざらでもない。

 先日のライブで歌った31曲のうち、ストローク奏法で歌ったのは「サントワマミー」「恋心」「宗谷岬」の3曲だけで、残る28曲は全てアルペジオ奏法で歌っている。
(厳密に書けば、「埴生の宿」「旅愁」で一部ストローク奏法を混ぜた)
「内外の叙情歌を弾き語ります」と宣言していることもあり、ギターは必然的に曲調に合ったアルペジオ奏法が中心になる。
 アルペジオ奏法は小指以外の4本の指で順につまびく弾き方だが、単純そうでけっこう奥が深く、前回のチカチカパフォーマンスでは曲調やフレーズに合わせ、10種類くらいの弾き方を使い分けた。
 7年前に活動を再開した頃にはやってなかった弾き方も最近はかなり増え、それが「けっこう上手くなってきた」と妻に言わしめた所以であろう。

 どの奏法もほぼ独学だが、言われてみて改めてネット検索してみたら、詳しく書かれたサイトを見つけた。ここには目下練習中の3フィンガーをのぞき、合計11パターンのアルペジオが掲載されているが、ほぼ全部マスターしていて、これ以外にもいくつか独自のパターンを持っている。
 つまり、現時点で合計15種類くらいのパターンを時に応じて使い分けていることになる。

 最近では同じ曲の中でも数種類のパターンを使い分けることが少なくない。コード譜には自分しか分からない符号が、あちこちにびっしり書きこんである。
優れた歌い手弾き手なら、楽譜すら見ずに瞬時のアドリブで自在に弾きわけているのだろう。だが、そんな芸当は私には無理。しかし、少しでも向上しようと、日々努力は怠っていない。

2011年10月26日水曜日

早くもX'mas

 昨日洗った大根を干すべく、葉の部分を包丁で切り、傷んだり土で汚れた部分をていねいに切り捨てる。この下処理だけで小一時間を費やし、すっかり身体が冷えてしまったので、いったん家に戻って熱い珈琲をすする。
 気を取りなおして再度外に出て、29本(1本は干さずに食べる)を3つの束にわけ、ロープでしばってウッドデッキ手摺に干した。これにて第一段階がめでたく終わった。


 17時から近くの地区センターで簡単な音響テストがあるので、機材一式を携えて出かける。少し前のことだが、12月上旬に地区センターで実施されるX'masコンサートへの出演を依頼された。
 実は10月上旬の文化祭にも出演を打診されたが、あいにく九州旅行の予定と重なっていて、やむなく不参加。次回は音響スタッフもかねての出演で、6月の被災地支援コンサートと同じ形だったが、会場が前回より広い体育館なので、音響のチェックを事前にする必要があった。
 センターに備え付けのミキサーの調子が悪く、手持ちのミキサーがセンターのPAにつなげるか?のテストだったが、悪戦苦闘のすえ、どうにか音は出た。しかし、残念ながらアンプも調子が悪いらしく、ノイズが入ってしまう。
 築後30年近い施設なのでPA自体が古く、あちこちに問題が出ている。PA一式の更新を市に申請中とのことだが、12月のコンサートには間に合わない。その場で協議の結果、次回は各参加者が個別にPA持参で参加する、ということで決着した。
 私は被災地支援コンサートで使ったローランドCM-30を使うことになりそうだ。前回よりもやや空間が広いが、ステージが壁から床に降りてくる収納タイプなので段差が少なく、客席に近い。何とか使えると思う。

2011年10月24日月曜日

力まない歌

 札幌駅前通地下歩行空間で2度目のチカチカパフォーマンスを実施。前日まで不順な天気が続いていたが、時折陽もさすまずまずの日和となった。「ライブ晴れ男」のジンクスはまだ続いている模様。
 駐車場からの移動や写真撮影が面倒なこともあり、今回も妻には休暇をとってもらい、引率をお願いした。

 13時に家を出、まず車を会場真上の交差点近くに停車。機材と妻をそこで降ろし、私だけが離れた駐車場に車を置きにゆく。事前に調べた1時間100円の駐車場がうまく空いていて、そこから歩いて妻と合流。


 機材を運ぶ距離を極力少なくし、最近膝の痛みに悩まされている妻の負担を軽くする策だったが、思惑通りに運んだ。


 前回より少し早く、14時10分からライブ開始。同じ時間帯で同じ場所だが、曜日が違うせいか通行人はやや少なめ。しかし、歌い始めると徐々に人が集まってきた。第1ステージでは世界の叙情歌を中心に、45分で以下の16曲を歌った。

「サントワマミー」「詩人の魂」「わかっているよ」「恋心」「愛の讃歌」「ドミノ」「さくらんぼの実る頃」「鱒」「シューベルトの子守唄」「ゆりかごの歌」「モーツァルトの子守唄」「竹田の子守唄」「てぃんさぐぬ花」「庭の千草」「サンタルチア」「ケ・セラ・セラ」


 前回よりも5曲増やしたが、重複は5曲のみ。初披露が「恋心」「愛の讃歌」「シューベルトの子守唄」「モーツァルトの子守唄」「てぃんさぐぬ花」「庭の千草」「ケ・セラ・セラ」の7曲もあったが、聴き手が特定されない場だからこそできる冒険である。

 最初の2~3曲でまず聴き手を集め、4~5曲目あたりからつかむ(引きつける)という路線をとったが、だいたいうまくいった。この場では好きな曲を歌ってはいるが、結局は聴いてもらってこその世界である。聴き手を無視した構成など考えられない。
 中間部に配置した「鱒」がちょっとしたポイントで、ここから同じシューベルトの子守唄に転じ、以降子守唄を4曲続けてラストへと持ち込んだ。場にはうまくなじんだと思う。
 14時50分に第1ステージを終えたが、3曲目あたりからずっと熱心に聴いてくださった2人組の中年女性が、去り際に「よい歌をありがとうございます」と声をかけてくれた。
 離れた場所で聴いていた妻が、「今日は余分な力が抜けていて、前回よりも出来がいい」と言ってくれた。最初からPAが使えたことと、顔見知りの人が皆無だったせいだろうか。力むとだいたいは失敗に終わるとよく言われるが、なるほど確かに。


 15分休み、15時5分から第2ステージ開始。日本の叙情歌を中心に、45分で以下の15曲を歌った。

「女ひとり」「いい日旅立ち」「さくら貝の歌」「北の旅人」「この道」「月の砂漠」「宗谷岬」「浜辺の歌」「埴生の宿」「荒城の月」「赤い花白い花」「宵待草」「時計台の鐘」「バラが咲いた」「旅愁」
 第2ステージも前回より1曲増やしたが初披露はなく、実績ある曲を並べた。ここでも前回と構成をかなり変えたが、最も強い反応があったのは新しく入れた「月の砂漠」である。この曲で聴き手がどんどん膨れた感じだ。
 暗い曲調なので普段はほとんど歌わないが、なぜこの曲がこうも受けるのか?しばしの分析が必要だ。

 途中で会場の通路側で大きなスピーカー音が流れ、歌っている真っ最中だったので、何ごとかと困惑した。あとで妻に確かめたら、通路の途中で立ち止まる人が続出し、通行の邪魔なので立ち止まらないように、との注意だったそう。
 歌いながら目をやると、確かに通路の真ん中で立ち尽くし、ずっと聴いている人がかなりいる。聴きたいが、近寄るほどでもない…、ということか。歌の力で何とかしたいが、難しい問題だ。

 後半残り5曲くらいになって、左手の指がつり始めた。MCなしで合計31曲も短時間で歌い続けたので、無理もない。幸い喉のダメージは少ない。過去の経験から関節マッサージを繰り返しつつ、何とか予定曲を歌い切る。
 15時50分に終了し、機材を片づけて帰ろうとしたら、最初からずっと椅子に座って聴いていた中年女性4人が近寄ってきて、「とても素晴らしい歌でした。心に響く曲ばかりです。次回はいつどこで歌われますか?」と尋ねてきた。
 見るとその眼が潤んでいる。推測だが、ラスト前に歌った「バラが咲いた」で非常に気持ちが入ったので、そのせいかもしれない。今後のおよその予定を伝え、念のため名刺を渡した。
 一期一会が基本の場だが、新しい出会いはちゃんとある。

2011年10月22日土曜日

お湯先焼酎

 晩酌にときどき焼酎を飲む。最初に発泡酒350mlをまず飲み、次に飲む酒が日本酒、ワイン、焼酎などを少量。同じ種類の酒ばかりでなく、いろいろ味わうのが人生楽しくてよろしい。
 以前はいいちこの25度を飲んでいたが、価格が少し高め。最近はもっぱらCGCの麦焼酎1800mlの紙パックである。

 息子が宮崎に転勤になってからは、南九州の特産品である芋焼酎を土産にもってくるようになり、正月にもらった霧島900mlを最近ようやく空けたばかり。麦焼酎の在庫もあり、年に飲む量はそう多くない。
 夏に帰省した折にも、「古秘」という本格薩摩焼酎を土産にもらった。こちらはまだ手つかずだが、いずれゆっくり楽しませてもらう。


 先日の九州旅行の折、初日に息子が連れて行ってくれた料理屋で、生ビールのあとに焼酎を飲もうかという話になった。
 霧島のオンザロックにしようかお湯割りにしようか迷ったが、地元ではメジャーのオンザロックはあいにく飲み慣れていない。普段通りのお湯割りを頼んだが、このときお店の人がお湯を先に注げ、と教えてくれた。

 いつも自宅では焼酎を先に入れ、あとから熱い湯を注いでいた。しかし、それは正しい飲み方ではないと地元の人は言う。素直に従ったが、後日ネットで調べてみたら、確かにそれらしき記載はあった。
 どうやら焼酎とお湯の比重の違いが根拠らしく、お湯を先にすることで、かき混ぜなくても自然対流で均一化されるとか。まあ、箸かマドラーでかき混ぜてしまえば同じことだが、覚えていて損はない。
 同じ店で刺身の盛り合わせを頼んでみたが、魚介類は北が最高と思っていたので、さほど期待してなかった。しかし、鯛、カツオ、サバなど南の代表的な魚が並んでいて、美味しさと新鮮度では全くひけをとらない。
 土佐のカツオもうまかったが、妻が大好物のサバがたいへん美味かったらしい。私は鯖アレルギーなので食べてないが、お店の人に「もしかして関サバ(大分産のブランド鯖)ですか?」と尋ねたら、いえ、関サバは高級品で手に入りにくいのです。これはサイシュウ島サバなんですよ、とのことだった。
 サイシュウ島?といぶかったが、つまりは韓国の済州島(チェジュ島)のことだ。九州と韓国は地理的に非常に近く、水産物も簡単に手に入るらしい。

「こんなに美味しいサバは初めて」と妻は目を細めていた。食べるに夢中で、写真は取り忘れた。残念。
 こちらもあとで調べたら、済州島産サバは隠れた名産品らしい。特に秋サバは絶品とか。北にゆけば北の、南に行ったなら南の旬の物を食すべし。

2011年10月20日木曜日

片思い的関係

 先日のブログに書いた廃品利用のカエルのオブジェ、イメージにある分をちょっとだけ形にしてみた。いわゆるプロトタイプ。パーツは全部廃品だけど、何を使っているか分かります?
 以前に壊れたBSアンテナを使って大型のカエルオブジェを作ったことがあるが、それよりずっと小さい。今回のを仮に「エコガエル」とでも名付けるとして、残るは石を使った「石ガエル」、そして木材を使った「ウッディガエル」の3種類を作る予定。

 私の好みは目玉がペプシの渦を巻いたサイバーカエルだが、妻は顔が黒くて目が白い忍者カエルがお好み。どちらもアヤシゲであることに変わりなし。


 この種の廃品利用のデザインはプロも含めて多数見られるが、流木や錆びた金物を拾い集め、楽器も含めた自在なデザインワークを展開しているのが、PAGIRU-STUDIOの井上リエさん。
 ネットでシャンソンの検索をしていて偶然知ったが、(ご主人がシャンソンを修行中だったはず)そのデザインセンスの素晴らしさに惹かれ、以降ほぼ隔日更新されるブログを、ほぼ毎日のぞいている。

 ブログにはコメント欄もトラックバック欄もなく、ただ一方通行で読むのみ。私のブログも全く同じスタンスだが、それでいいのです。
 しかし、デザイナーとしての実績は私の比ではなく、よく利用するカルディコーヒーファームのデザインはすべて井上さんによるものだし、あのユーミンのコンサートポスターも井上さんが何度か手がけている。来年2月の苗場コンサートのポスターも、難関のコンペを勝ち抜いたと最近のブログでふれていた。
 無駄を排除したナチュラルでシンプルなデザインと、落ち着いたカラーセンスが好きで、けっこう影響を受けているかもしれない。
 カエルが大好きで自らもチェロを奏で、デザインと音楽がコラボした個展を定期開催し、ご主人がシャンソン嗜好。何かと共通点が多いが、連絡をとったことは一度もない。まあ、ずっと片思い的関係も悪くはないと思っている。

2011年10月19日水曜日

紅葉墓参

 雲ひとつない快晴。妻が休暇で家にいて、これといって仕事もない。午後から冬ごもり前の墓参りに出かけることにした。
 午後1時半に家を出たが、途中で花と菓子を買ったので、到着は午後3時。穏やかな日和だったが、平日なので広大な霊園に墓参者は皆無だった。

 帰路は近隣の滝野公園に寄るつもりでいたが、ただ入るだけで駐車料と入場料2人分で1,200円もかかることが分かり、気が変わった。同じく帰り道にある札幌市立大学に久しぶりに寄り、美しい紅葉に包まれたキャンパス内を数年ぶりに散策した。


 いまは首都圏でデザイナーとして働く娘が10数年前に青春時代を過ごした場所で、私もPTA広報誌の委員を務めていた関係で、何度も訪れた想い出の地だ。
 当時よりも周囲の木々がいっそう深くなり、まさに「森の校舎」である。月日の流れをしみじみ感じる。
 さらなる帰路、どこかで珈琲を飲もうということになり、手帳に記してあるカフェ・リストから、7~8ヶ所の候補店をピックアップしたが、寄り道の度合いが最も少なく、しばらく行っていない北大農場近くのライブカフェに決めた。
 主にプロのジャズ、クラシック、シャンソン歌手のライブをやる店で、あのクミコも何度かここで歌っている。格が高すぎて私などはとても歌わせてもらえない。

 しばらくぶりなので、もしや閉店しているかも?と思っていたが、以前と変わらぬ佇まいと珈琲の味でほっとした。ここでも客は私たちだけ。
 西の窓から手稲連峰に沈む夕陽と、その手前でのんびり草を食む乳牛の群れを眺めつつ、静かな時を過ごす。よき秋の日である。

2011年10月18日火曜日

願いの運玉

 先日の宮崎旅行の折、初日に息子が鵜戸神宮に案内してくれた。宮崎の代表的な観光地で、41年前の自転車旅行では台風の接近による悪天候と、国道沿いにはないという理由で見そびれていた。
 切り立った崖の洞窟を中心に、いくつかの社が祀られていて、いろいろな伝説、神話があるらしい。神社もさることながら、単純に奇岩が立ち並ぶ景勝を眺めるだけでも退屈しない。さすがに伝統ある地である。


 順路の一番奥に、「亀石」と呼ばれる亀の形をした巨岩が断崖の途中に突き出している。高い位置にある神社と海面の途中あたりに位置し、背中にあたる部分に小さな窪みがある。
 この窪みにむかって石を投げ、見事入ると願いが叶うという。観光地によくある伝承だが、売店で「運玉」と呼ばれる専用の石が5個100円で売られている。私はこの種の行為にあまり興味がないが、旅行の数日前にNHKテレビで事前情報を得ていた妻は、ぜひやってみたいという。
 20代で四国高松市に現場赴任した折も、屋島という観光地で「瓦投げ」という厄払いの儀式をやりたがったのも妻だった。妙に縁起を担ぐところがあるのだ。
 息子が気を利かせて2人分の運玉を買ってきたので、一緒にやってみた。男は左手、女は右手でやる決まりだという。チャンスは5回きり。私も妻もそれぞれ真剣に投げたが、窪み縁の惜しい場所にぶつかりはするが、1個も入ることはなかった。
 距離と落差があり、ターゲットが小さいので、そう簡単には入らない。隣で一心に投じていた若い男性が最後の一投を見事に入れ、(よし、入った!)と独り小さくつぶやいていたのが印象的だった。

 息子は最初のトライで、5個のうち1個が入ったという。お前はまだ若いから、願うことはたくさんあるだろうが、齢60歳を過ぎた私にはもう願うことも叶えたいこともあまりないから、別に入らなくてもよいのだよ、と半分強がりで言うと、横で妻が、「あら、私は健康を願いつつ投げたわよ」と言う。
 おう、確かにそれはまだ願いとしてありだな、と笑った。年と共に次第に欲が薄くなり、願いがささやかになってゆく自分を感じるが、きっとそれでよいのだ。

2011年10月16日日曜日

悩ましきカーナビ

 先日の九州旅行では、空港までの送迎はもちろん、観光地めぐりの大半を息子の運転に依存した。首都圏の本社勤務から宮崎支店勤務になって3年余。現地の地理には明るいので当然といえば当然だが、車での移動中、息子は終始カーナビを使っていた。
 カーナビといっても車に装着する豪華なタイプではなく、手帳ほどの大きさの簡易なポータブル式のもの。電源はシガーソケットからとっていて、取り外しもごく簡単。どの車にも搭載可能という。(ユピテル製)


 パソコンのUSB端子から充電も可能で、手持ちでも2時間は動く。GPS機能で歩きながらでも自分のいる位置が分かるという仕組みだ。
 これだけ機能がそろっていて、価格が1万5千円ほど。実際に使っているのをつぶさに観察したが、現在地、目的地、経由地をタッチパネルですいすい入力できる。曲がり角での音声指示も親切で適切。急なルート変更への対応も素早い。想像を越える能力だった。
 最近になって車でのミニ旅行やら遠方の介護施設からのライブ依頼などが急増しつつあるので、見ているとつい欲しくなった。しかし、今年は過去に例がないほど仕事が薄く、「ちょっと便利」「あればいいかも」という単純な理由ですぐ買うわけにはいかない事情がある。
 事前にグーグルマップで道順のポイントを入念に調べてゆくので、自分で運転した夏の函館旅行でも、迷ったのは一回だけ。それもすぐに正解ルートに戻った。初めての介護施設でも、ほとんど迷うことはない。つまり、工夫すれば何とかカーナビなしでもやれるということだ。

 だが、機能のみならず、メカニックな操作そのものにも惹かれる。根が理系の虫が騒ぐ。
「世の中の70%くらいの物は、あってもなくてもいい物」と以前誰かが言っていて、確かにそうだなと私も思う。その論理からすると、たとえばいま大ブームのスマートフォンなどなくても、現状の携帯とPCだけで充分やっていけそうだが、このポータブル式カーナビの誘惑は何とも悩ましい。

2011年10月15日土曜日

切ない旋律

 雨の予報が外れ、雲の間から晴れ間がのぞく。休暇で家にいた妻と紅葉狩りに出かけようかと迷ったが、ついこの前九州旅行から戻ったばかりなので、遠出は自重することにした。
 近隣のスーパーに買物があるという妻の求めに従い、昼食をかねて出かけた。

 紅葉がじわじわと街まで迫ってきて、スーパーの前にあるナナカマド並木の何本かは、真っ赤に色づいている。店頭にはすでに来年のカレンダーや年賀状の見本が並ぶ。今年も残り少ないと実感する。


「幸せのカエル」という新曲を作ったが、これが自分でもよく分からないファンタジー系の曲。といいつつ、ちゃんと曲に託したものはある。簡単に書くと、「幸せの在処はいずこに?」といった曖昧模糊としたテーマだが、詩もさることながら曲にこの曖昧さを吹き込むべく、「add9(アドナイン)」というコードをかなり使った。

 メジャー、マイナー、セブンス、メジャーセブン、マイナーセブン、等の系列がコードには存在するが、そのどれにも分類されないコードらしい。
 音楽的な意味は知らないが、たとえばAadd9なら、Amのコードから人差し指を抜けばよい。以下、Badd9、Cadd9も同様で、押さえ方自体はそう難しくない。
 このアドナイン系列のコードを使うと、ちょっと切ない感じの旋律になり、独特の気分が出せる。使い過ぎは禁物だが、「ここ」という場所に使うと、かなり効果的。

 同じ目的で「シックス」系列のコード(Dm6など)もたまに使うが、こちらは切なさがもっときつくなる。(故郷を歌ったオリジナルの「丁未」や、そのものズバリの「切ない夕暮れ」で使用)
 アドナインはこの「切ない夕暮れ」やシャンソン系オリジナル「メガネを買う」でも使った。使うのは確か今回で3度目。詩のメッセージを的確に伝えようとして手探りで会得したコードだが、アドナインという系列であることをのちに知った。60歳を過ぎて自然にたどり着いた旋律なのだ。

2011年10月11日火曜日

旅の余韻

 札幌から宮崎までの大移動を、わずか3日間のうちに2度もやってしまったので、頭がまだ半分ほど九州に残っているような、不思議な感覚である。

 1500kmもの長距離を乗り換え時間30分を含めて、わずか4時間で移動できてしまう。飛行機という文明利器が使えるのも石油が存在するいまのうちかもしれないが、人類が石油を掘りつくすであろう数十年後の世界では、おそらく飛行船かソーラー飛行機が主力だろうか。現代のような低料金短時間での移動は難しくなる気がする。
 飛行機に乗れるのは一握りの富裕層のみ。庶民が存分に文明の恩恵を受けられる時代に生まれたことを、せいぜい喜びたい。


 旅の余韻が残る頭で考えたが、人間は急に出来上がるものではなく、あるポイントから少しずつ少しずつの積み重ねがあって、いまの自分があるのだな、という実感である。
 問題はそのポイントが各自にあるか否か、あるいは仮にあっても、それが確かなものであるか否か、なのだろう。ポイントにずれがあると、修正にはかなりの難儀が予想される。若い時期に多くの旅をし、たくさんの人と出会って良かった。

2011年10月10日月曜日

人生の足跡を辿る旅

 3連休を利用し、長男の暮らす宮崎県に小旅行に行った。8月に次男の暮らす道南の街をドライブ旅行してきたばかりだが、今回は海を越えての空の旅。11年前の銀婚式の折には娘の招きで横浜を訪れている。
 今回で3人の子供たちが暮らす街をそれぞれ夫婦で探訪し終え、いわば「子育て終了記念旅」が完結したことになる。子育ては大変でもあるが、こうした時間を子供たちと共有することで、何か報われたような気持ちにもなる。生きているうちに、そして、生きていればこその嬉しい旅である。


 私は20歳のときに自転車放浪の旅で訪ねて依頼、41年ぶりの宮崎。そして妻は九州の地を訪れること自体が初めてだった。
 長男の案内で私の青春の思い出の地、そして時間の都合で見逃してしまった地などを重点的に回ったが、天候にも恵まれ、新しい出会いもあり、充実した時間を過ごすことができた。
 上の写真は自転車で訪れた際、道路上で不思議に光る数珠を拾った思い出の地、堀切峠である。新トンネルが完成し、国道ルートからは外れてしまっていたが、峠の佇まいは昔とほとんど変わってなかった。
 頂上近くに新しくできた道の駅で美しい海岸線を眺めつつ、3人で美味しい珈琲を飲んだ。


 上の写真は同じく自転車旅行の折、恩ある方が暮らしていた海岸である。(宮崎県日向市美々津)台風の接近で雨模様の海岸でテントを張っていたとき、家に招き入れて入浴やら食事、洗濯など、通りすがりの旅人に過ぎない私をまるで息子か孫のようにお世話して下さった
 神武天皇にまつわる伝説が残る海岸と沖合にある2つの島は41年前と少しも変わっていず、泊めていただいたお宅の場所もすぐに見つかった。


 お世話になったKさんはすでに他界していて、海岸べりにあったお宅は建て替えられ、別の方が暮らしていた。しかし、Kさんをよく知る隣家の方が存命で、私が北海道から訪ねてきたことを告げるとたいそう驚かれ、涙ながらに故人のいろいろな思い出を懐かしく語ってくださった。
 Kさんは私以外にも、しばしば見知らぬ旅人を家に泊めていたことを知った。慈愛に満ちた方だったのだろう。
 この場所でKさんに出会い、私の人生の方向性が決まったのだと、いま振り返って思う。自分の辿ってきた足跡を妻や息子の立ち会いのもと、この目で確かめることができた。はるばる訪ねたかいがあった、生きてて良かったと思った。

2011年10月5日水曜日

女性的視点

 日が暮れて写せなかったので、昨日修理の終えたウッドデッキ物干しの拡大写真を本日掲載。梁は9本のパーゴラを受けつつ、ヒートンを等間隔で10本ネジこんで、洗濯ハンガーを吊るすようにもしてある。
 これまではドリルで直接穴を開けてハンガーを引っ掛けていたが、雨水が溜まりやすく、腐食の元凶となってしまった。そこで今回はステンレス製ヒートンを使った。右はじのピンチ付大型ハンガーは、ヒートンに事務用のリングをはめて吊るす。

 この間隔でハンガーを吊るしてやると風の通りがよく、陽もよく当たって早く乾く。単純に奥の物干し竿にかける方法もあるが、風で動きやすく、互いに重なってしまって乾きにくい。落下することもある。自分で実際にいろいろやってみて、たどり着いた最適の手段が目下これ。


 建築家に設計を頼んでも、なかなかここまではやってくれない。ディティールが細かすぎるのだ。結局自分で工夫してやってしまうのが手っ取り早い。電気を貪る全自動乾燥機など所有しているリッチな方には、無用の長物であるが。

 これに限らず、住宅設計には女性的視点が不可欠な部分が多々ある。ロボットのデザインをする会社が、男性新入社員に毎日の昼メシを仕事として強制的に作らせるシーンをテレビで観たが、同様に建築設計士の卵には、事務所の家事全般を1年くらい徹底してやらせるのもよいかもしれない。

2011年10月4日火曜日

これぞホンモノ

 1ヶ月半ぶりに仕事の依頼があったので、急に忙しくなった。しかも好天。ウッドデッキ補修の残りが気になり、すぐ終わるだろうと始めたが、これが手強いのなんの。
 手こずった元凶は、パーゴラの一部に腐食を発見したこと。2本だけだったので、腐食部分を切り捨て、手頃な材料で継ぎ足し処理して凌いだ。これがなかりの手間。おそらくあと数年で全交換になりそうで、あくまでツナギ処理である。

 洗濯ハンガーを吊るすステンレスヒートンも10個取付け、腐った木材をゴミ袋に入れてようやく全部が終わった。柱と梁に関しては新品にしたので、あと10年は持つはず。


 ツイッターで芥川賞作家の辻仁成氏を密かにフォローしているが、昨日未明のツイートに「喉を傷めて風邪の初期症状」とあったので、いつも自分がやっているショウガ湯のことを返信ツイートで知らせてあげた。
 フォロワーが3万人もいる超有名人なので、返信など全く期待してなかったが、何と数時間で「ご丁寧にありがとうございます! ためしてみます」とていねいな返信が届いて驚いた。
 辻仁成氏は作家であり、音楽家でもある。エコーズというバンドを組んでいて、まだ小説を書いていない頃、オールナイトニッポンのDJをやっていた。深夜3時~5時という時間帯だったが、欠かさず聞いていた。
 1987年から2年間で、私が脱サラして5年目。人生に対して非常に前向きで真面目なところに共感し、ずっとファンだった。
 作家になってからも、初期の作品はだいたい読んでいる。DJをやっていた頃と同じ世界観が行間に展開されていて、一番好きなのは「白仏」。「好きな作家は?」と問われたら、女性なら川上弘美、男性なら辻仁成と迷わず答えるだろう。

 その辻仁成氏とまさかこんな形で糸がつながるとは、人生捨てたものじゃない。些細なことにもこうして素早く応対してくれる。誠実な人なんだな、と思う。しかもちっとも偉ぶっていない。これぞホンモノである。
 最近の作品は読んでいないので、久しぶりに読んでみようかと思う。そんな気になった。

2011年10月2日日曜日

ウッドデッキ補修進行

 予報では曇り時々雨だったが、昼近くになって急に陽射しが強くなった。真冬なみの寒気到来で17度まで下がっていた室温も、みるみる20度まで上昇。外でのDIY作業はとても無理だと思っていたが、ウッドデッキはすっかり乾いていて、雨など降りそうにない。中断していた補修作業の続きをやることにした。

 寒いので冬物セーターとジャンパーで完全装備。下準備は済んでいたので、作業はすんなり進む。午後3時までに残っていた北側の斜め梁と柱の取付けが終わった。


 珈琲を飲んで休憩後、パーゴラ下端を支える3600長の梁を取付ける。併行してデッキ床板の補修をし、ステンレスの物干し竿も取り付けた。物干し竿は斜め梁の一部を切り欠き、直接はめこむ方式に変更。これまでの受枠方式よりも部材が減って、シンプルな収まりだ。
 パーゴラはこれまでの11本から2本減らした。予想外の床梁腐食発見で、材料を急きょやり繰りしたせいだが、単にデザイン的処理なので、減らしても問題はない。

 パーゴラ1本をつけ終えたところで、日没サスペンデッド。秋の日暮れは早く、暗い中での作業は怪我のもと。残る8本の取付け作業は難しくなく、空模様をながめながらユルユルやる。無理せずに少しずつでもやれば、だいたいのことはやり遂げられる。


 斜め梁と柱との接続部分には「ハリケーンタイ」と呼ばれるツーバイフォー専用金具を使った。本来の使い方とは少し違っているが、屋根は張らないので、これでOK。
 柱上端には余っているトタン板を加工し、雨よけとしてかぶせた。雨ざらしの柱類は、小口の特に上端部が劣化しやすい。ときどきプロもこうした処置をしているが、真似をしてみた。効果を期待したい。

2011年10月1日土曜日

突出最高齢

 札幌駅前通地下歩行空間で実施中の「チカチカパフォーマンス」の第1回打合せに出向いた際、他の13組のパフォーマーと初めて顔を合わせた。私を除いて、みな一様に若く、多くは20~30代といったところ。
「一切の事務処理はネットで」という条件があるせいなのか、あるいは通りすがりの人々を対象にパフォーマンスをやろうとすると、若くないとやれないということなのか、その理由は定かではない。
 最も近いと思われる方でもせいぜい40代前半。隣に座った30代くらいの唯一音楽関連の方と言葉を交わしたが、「かなり長い間活動をやっておられるようで…」と言われてしまった。その通り、長く弾き語りにしがみついていることは間違いない。

 7月末に参加した「ALIVEミュージックフェスティバル」でも同じ傾向を感じた。いまやどのような音楽イベントに参加しても、突出した最高齢者。以前は自己紹介で年齢をいつも言い添えていたが、「ALIVEミュージックフェスティバル」では審査員にたいそう驚かれ、それがまるで同情を買う行為のように思われたふしがある。
 以来、下手に年齢を言うとマイナスに働きかねないと悟り、自己紹介の場面では問われない限り、年齢は一切口にしないことにした。
 あと10日ほどで62歳になる。自分でも信じがたいが、子供のころは60歳を越えると立派な老人で、まさかこんな年まで生きるとは思ってなかった。「船頭さん」という童謡で確か「今年60のオジイサン…」という歌詞があったはず。どうあがこうが、60を過ぎると立派なジジイである。
 とはいいつつも、相変わらずあがいている。無理に若ぶる気はサラサラなく、単に自分の内なる欲求に従って行動しているだけだが、少なくとも弾き語り活動に限定すれば、すでにアマチュアシンガーに同年代のお仲間はほとんどいなくなった。

 こうなると、(いったい何歳まで弾き語り活動を続けられるか?)が、自分でも最大の関心事である。大した仕事もなく、一緒に遊ぶ孫などいない。自宅は野中の一軒家で、歌う条件にはすこぶる恵まれている。
 実は6月下旬に地域FM放送局の三角山放送局・我が町のエンターテイナーという番組に生出演した際、DJの方から「いくつまで活動を続けたいですか?」といった主旨のことを聞かれた。
 事前の打合せにない質問だったので、その場の勢いで「還暦コンサートを無事に終えたので、次は古希(70歳)コンサートといきますか」などと応えてしまった。あまり自信ないですけどネ、と言い添えた気もする。

 正直いって、いつまでいまのように活動できるのか、自分でも見当がつかない。命がいつまで持つかも含め、神のみぞ知る領域の話だ。せいぜい自己節制に努め、古希コンサートが本当に実現できれば楽しいだろう。あと8年である。