2011年6月19日日曜日

アートな散策

 午後から車で都心に出かけた。先日、地域センターでのロビーコンサート音響テストの際、立ち会ってくれたオカリナの先生から、オカリナ演奏会の入場券をいただいた。一度も聴いたことがなかったが、せっかくの好意なので行くことにした。

 案内されたライブや作品展には極力行くよう心がけている。案内状はぜひ来て欲しい相手に送るもの。逆の立場になって考えれば分かる。その好意を無にしてはならないし、同じ表現者として参考になることも少なくない。
 歌い手はただ歌っていればよいわけでなく、他のライブを聴いたり企画したりするのも、立派な自分のコヤシなのである。


 駐車場から会場となる札幌市民ホールに向かう途中、最近できたばかりの創成川公園を通る。札幌の中心を貫く創成川周辺を整備してできた公園で、安田侃の彫刻を始め、さまざまなモニュメントが設置されている。
 市民の憩いの場をめざしているらしいが、その北外れに写真のようなステージ状の構造物を発見した。「さあどうぞここで歌ってください」そう呼びかけているように感じるのは、歌い手としての悲しいサガか。
 さっそく調べてみたが、イベント用に貸し出してはいなかった。募集しているのは樹や花の管理と、清掃のボランティアのみ。しかし、交渉の余地はあるかもしれない。


 すっかり道草をしてしまい、開演ギリギリに札幌市民ホールに飛び込む。全道から27組参加の大イベントである。
 予想外だったが、多くは10人以上の集団による演奏だった。どのグループもバックに流れるBGMに合わせて演奏し、指揮者はいない。正直に書くとどれも同じ音に聞こえてしまい、退屈した。

 部分的にソロ演奏を入れるとか、伴奏に生ギターを入れるなりして欲しいものと思い、次の予定があるので席を立とうとしたら、見事なハーモニーを取り入れているグループが登場して、座り直した。10人ほどの小人数だが、音程のブレも少なく、よくまとまっている。
 おそらくはリーダーのこだわりだろう。私はソロ演奏しかやらないが、集団で音楽をやる場合、リーダーの資質でほぼ全体のグレードは決まる。


 演奏会場から10分ほど歩き、次なる目的地の札幌市民ギャラリーへと向かう。先月の「叙情歌暦」のライブに来てくださった小学校時代の恩師ご夫妻が、ここでの作品展(全道展)に出品されていて、その入場券をいただいた。
 定年退職後にご夫妻で始めた趣味と聞いていたが、60歳を過ぎてから本格的に絵を始めるのもすごいが、全道展の会員となるのもまたすごい。そのあくなき好奇心と向上心に敬服する。


 ギャラリーには軽く100を超える大作が所狭しと並んでいて、圧倒された。新聞等でよく知られた芸術家の作品も並んでいる。
(写真は許可を得て撮影しています)
 ひとつひとつ興味深く見たが、自分好みの作品が必ずしも賞に輝いているわけではなく、公的評価と自分の嗜好には微妙なズレがある。音楽や文学でもそうだが、世の評価は絶対的なものではなく、しょせんこの世は趣味の問題である。歌い手ならば、自分の歌を気に入ってくれる人にだけ聴いてもらえばよいのだ。
 目的のO先生ご夫妻の作品は2階の奥まった場所に並んで展示されていた。畳2枚ほどの大作で、それぞれ「漁婦(1)」「病める牛~CRANIUM(2)」とあり、明らかに東日本大震災以後の世界をイメージしている。
 暗い海を背景に漁婦が握るギターは、なぜかネックが折れている。それを不安げに足元で見つめる子供。海も夫も奪われた漁婦には、悲しみの歌を奏でることさえ許されてはいないのだ。
 唯一の救いは、画面左隅で咲く小さな花々。この花に未来へのかすかな希望を先生は託したのか。

「病める牛」には全く救いがない。取り残され、放射能の風雨の中で息絶えたフクシマの牛。その頭骨(CRANIUM)から滴る真っ赤な血は、過ちを繰り返す人間への強い抗議だ。O先生(ご主人)のやり場のない怒りを感じる。
 他の作品にも「震災以後の世界」を想起させるものが数多くあった。表現者として東日本大震災を避けて通ることはできないはずで、音楽でも文学でも、プロでもアマでも、それは同じことだ。素知らぬふりを通すのもよいが、そうはいかない。
 70代の高齢ながら、震災に正面から対峙しようとしているO先生ご夫妻を、心から尊敬したい。