2007年8月31日金曜日

ケシカラン

 人間という存在そのものがそうなのかもしれないが、日本人は特に「ケシカラン」という攻撃的思想にしばられ過ぎている気がする。特にオヤジね。私も立派なそのオヤジですけど。
 自分とは直接利害関係のない問題にも、とにかく「ケシカラン」。ネットやブログの普及で市井の庶民が自由に物を言えるようになったのは、基本的にはよいことだと思う。しかし、自己抑制のないこの「無差別ケシカラン攻撃」には、時にヘキエキさせられる。

 一級建築士の資格を持つ私も、例の構造偽造問題発覚後、この「ケシカラン攻撃」の矢面に立たされた。偽造とは全く無関係でも、一級建築士というだけで厳しい視線にさらされた。去年から今年にかけての事業の悪化とこれとは、決して無縁ではない。
 そして最近多いのが、年金問題に端を発した「公務員ケシカラン攻撃」。世の中全体がヒステリック状態に陥り、「水に落ちた犬は叩け」とばかりに、年金とは直接関係のない公務員までもが、バッシングにさらされている話も聞く。
 みんな生きるのに余裕がないのだなあと、つくづく思う。やられている側もやっている側も、どちらも哀れに思えてならない。

 私の場合、不公平な状態から逃れる算段を自ら考え出し、この一年余で緩やかに舵を切り直した。しかし、逃げたくとも逃げられない人たちもたくさんいるだろう。
 いわれのない「ケシカラン攻撃」を仕掛けた連中、いつかは我が身にも、全く別の火の粉が降り掛かってくるかもしれない。世の中一寸先は闇で、案外そんなふうに公平に出来ているものだ。そのとき、あわてずに対処出来るだろうか。

2007年8月30日木曜日

忍耐と時間

 例年9月に開催される某ライター集団の総会に備え、去年いただいた「宿題」を、ぎりぎりのいまになって、ようやくやり始めた。
 その「宿題」とは、近い将来に共著で出版予定の本に使う年表作成作業である。20人弱の歴史著名人のおおまかな記録をまとめるのだが、なぜ私が指名されたかといえば、会の中では下から2番目に若いこと、そしてネット操作に詳しいことが理由である。
 50代後半であっても、この組織では単なる「小僧」に過ぎないのだ。
本が企画にあがったのは、3年前の総会である。以来、基礎資料の多くを私が作成した。年表作成を任された背景は、ここにもある。内容が結構濃いので、多くの「重鎮」から賞賛されもしたが、たいした時間はかかっていない。
 私は会の責任者でも事務局でもないが、やる気があってやれるんだから、きっとこれでいいのでしょう。


 で、その本なのだが、私のノルマ分の原稿はとうの昔に入稿ずみ。しかし、まだ書いていない人がいる。誘われて会に入ったばかりの私なので、詳しい事情はよく分からないが、どうやら一冊の出版に10年くらいかけるノンビリしたペースらしい。そのうちに企画自体が流れてしまう可能性もなくはない。
 普段の自分の仕事は、あっという間に片づけてしまうたちなので、この牛歩ペースに慣れるには、相当の忍耐と時間が必要のようだ。

2007年8月29日水曜日

春の風が吹いていたら

 訪問ライブが秋メニューに変わる時期でもあり、空き時間を使って新しい曲をいくつか仕込んだ。
「叙情的」「唱歌風」という切り口で、「夕焼け小焼け」「高原列車は行く」「朝はどこから」「踊子(三浦洸一)」「下町の太陽」などを練習。これらの主旨からは少し外れるが、「星の流れに」「夢追い酒」の演歌系の歌も練習。
 勢いに乗って、フォークの隠れた名曲「春の風が吹いていたら」(作詞、作曲:伊庭啓子)も再練習し、こちらは歌詞とコードをほぼ暗譜した。
 この曲は吉田拓郎とおけいさん(四角佳子)がかって一緒に歌っていたが、二人の破局後もひっそりと歌い継がれている。とても好きな歌で私も若い頃、友人の結婚式でギター弾き語りで歌った。

 本当は男女のデュエットで歌うのがよろしいが、一人でも充分いける。もし二人で歌う機会がどこかであった場合に備え、一部を原曲にはない二重唱にした編曲にもチャレンジ。


 ネット検索してみたら、この歌の隠れファンはかなりいる。つい最近、当時のレコード(アルバム「伽草子」)そのままがアップされていて驚いた。当時のレコードをいまでも大切に持っていて、プレーヤーも現役。いつでも聴けるが、ネットで聴くと何か違って聞こえるのはなぜ?

 おけいさんには、3年前に及川恒平さんの時計台コンサートを主催した折、チケット販売で応援していただいた。そのときにメールで何度かやり取りがある。とても気さくで、暖かな方だ。
 直接お会いしたことはないが、もしかしたら天女のような方かもしれない。透明感のある天女の歌声は、当時もいまもあまり変わっていない。

2007年8月27日月曜日

メガネを買う

 久し振りにメガネを買った。今回買ったのは遠近両用メガネで、レンズに境目がなく、しかも薄型。枠こみ24,000円弱で、私の買物にしては高い部類に入る。
 メガネを最初にかけたのは10歳だから、かなり早いほうだ。成長期に満足にメガネを買ってもらえなかったトラウマがあり、眼は身体の一部でもあるので、メガネに関する節約はあまりしない。

 手持ちのメガネを調べてみたら、写真のように6個もあった。上の二つは使っていない単なる非常用。過去に何度かメガネを壊しているので、万が一を考えて、古いメガネも捨てずにとってある。
 これ以外にもサッカーをやっていたときに作った「度入りゴーグル」というメガネもどきがあったはずだが、見つからない。


 写真まん中に二つ並んでいる茶色のセルフレームは、左がライブ専用で視力が0.8前後。遠くも近くもほどほどに見えて、楽譜と聴き手の顔を交互に見るのに都合がよい。

 右側は車に常時積んであり、視力が1.2でる。いわゆる運転専用だが、このまま仕事の打ち合せに行った場合、近距離での図面が見にくい。そこで下から2番目にある「近々メガネ」(パソコンや新聞を読むための室内常用メガネ)を持参して直前にかけかえるが、これが結構煩わしく、多忙なときは車の中に忘れることもある。
 忘れたときはメガネをかけたり外したりして打ち合せを進行するが、これが相手には結構失礼だったりする。
 これらの問題を解決するべく買ったのが、一番下にある遠近両用メガネだ。度数の変化が激しいので、いきなり車を運転すると危険らしい。散歩などで徐々に慣らす必要がある。
 本当は太いセル枠が好きだが、レンズに高い物を使った関係で、枠にまで余裕がない。予算内では金属枠しか手に入らず、イメージに最も近い全枠の品にした。

 記憶をたどってみたら、過去に使ったメガネの数は全部で15個くらいになった。視力のよい人が本当にうらやましい。
 メガネとは一生縁が切れそうにないが、だからといってカンオケの中にまでメガネはいらない。タマシイだけの存在になってしまえば、いつでも心の眼であたりがすっかり見えるはずだから。

2007年8月22日水曜日

二十歳の夏

 妻との夕食時に、「二十歳の夏に何をしていたか?」という話題になった。私の場合、二十歳の夏には明瞭な記憶がある。このブログでもすでにふれたが、自転車で日本中を放浪の旅に出ていた。

「確か今日あたりは、山陰地方のどこかにいたはず」
 そう思って旅日記を調べてみたら、ずばり8月22日は島根県から鳥取県にかけて走っていた。
僕はどうして生きて行こうか…
 そんな歌の文句のような漠然とした思いに捕らわれつつ、あてのない旅路にいた。
 妻の場合は前年に父親が突然亡くなり、働きながら通った高校も無事に卒業して、「さて、これからいかにして生きるべきか」という、私と似たような難しい命題と取込んでいたらしい。
 それまでの事務系の仕事には飽き足らず、いわゆる「手に職」をつけるべく、当時あった職訓(公共職業訓練学校)のトレース科に願書を出し、翌月の試験に備えて、修練と漠然とした不安に苛まれる日々を送っていたという。
 職訓には無事合格し、半年後に就職した会社がいまでいうエコロジー関連会社。放浪の旅を終えて2年後に私が受けて合格したのが、同じ会社であった。

 つまり、2年半後に遭遇し、やがて結婚する運命にあった二人の過ごした夏が、くしくも似たような「自分探しの夏」であったらしい。
 少し違っていたのは、私が日本中を旅したすえにたどり着いたエコロジー産業という選択が、妻の場合は「職訓から紹介されて合格したから」という、ごく平凡な動機であったこと。とにかくトレースという技能職で働ければ、どこでもよかったようだ。
 ともあれ、同じような迷いの中で二十歳の夏をそれぞれ過ごした二人が、いま苦楽を共にしていることに不思議な人生のエニシを感じる。
 二十歳の夏をどう過ごしていたのか、他の中年世代にも尋ねてみたい。

2007年8月19日日曜日

深い話

 一昨日から函館に住む息子が帰省していて、ついさっき帰った。中古で買ってまもない車で往復しているが、お盆の混雑を避け、休暇を少し遅らせたのは賢明だった。

 初日は学生時代の友人宅に直行し、そのまま宿泊。我が家に顔を見せたのは、昨日の夕方だった。自立した立派な社会人だから、親でも細かいことは何も言わない。帰省の連絡があると、寝具を整えておくだけだ。
 感心するのは、手土産をいつも忘れないこと。私には酒の肴、妻にはイカの塩辛と、好物を心得ている。自分の飲む分のビールも忘れない。
 昨夜はBBQの予定もあったが、あまりにも寒く、しかも風が強くて断念。妻が買ってきたカニを食べつつ、ビールをしたたかに飲み、大いに話した。
 我が家は妻と私だけでもよく話すが、これに話好きな息子と酒が加わると、留まるところをしらない。かれこれ3時間は話しただろう。話題は主に恋愛論や結婚論、そしていかに生きるかの人生論で、息子には「友人とでも、ここまで話題が深まることはない」と、いつも言われる。


 妻とは結婚前のつき合っている時期から、この種のムズカシイ話をよくした。誰でもそんなものだと思っていたら、「それは珍しい男女関係だ」と多くの人から言われ、そうなのか、そうだったのかと自分たちの世間一般とは少し違った居場所を知らされた。
 結婚後30数年を経てもその関係は少しも変わらず、子供たちが成長したいまは、子供をも巻き込んだ、とめどもなく深い話が展開される。
 今日は天気もよく、無風。夜に出発する息子のために、真っ昼間からBBQをやった。いい具合に安い食材も手に入り、息子も満足。
 今日の話題は、会社における自分の立場など。サラリーマン時代の私といまの息子の置かれた立場が酷似していて、「仕事はやる気のあるヤツ、やれる奴に集まってくるぞ」等々の私のウンチクが、結構参考になるらしい。

 大人になった息子とこうして対等の位置で飲み、かつ議論できるのは、本当に楽しい。ここまでの道のりは決して平坦ではなかったが、よくぞ育ってくれたと、しみじみ思う。人生の喜びは、あちこちに散らばっているよ。

2007年8月18日土曜日

ユダンならぬ

 町内会にはゴミ集積場の掃除当番があり、決められたゴミステーションを数カ月に一度のペースで掃除、除雪をすることになっている。
 先週、この当番が回ってきた。担当は一週間だが、週末になって突然ルール破りのゴミが放置され、一向に片づかない。律儀な妻は、ゴミを残したまま、次に回してしまうのはイヤだといい、2週続けて今週も当番をやるといい張る。

 放置されたゴミは、分別すべき3種類のゴミが混ざっていて、収集不能。このままだと、永遠に放置されかねない。ゴミ当番にそこまでやる義務があるのかどうか疑問もあったが、やむなく私が放置されたゴミ袋を開き、持参した別の袋二つに「自主分別」した。
 問題のゴミ袋には、アルミ缶やビン類の「資源ゴミ」、トレーなどの「プラスチックゴミ」、その他金属類の「燃えないゴミ」が混在していて、飲み残しのジュース類がこぼれ、異臭を放っている。分類作業中に汚れたステーションを水で洗う作業まで増え、すべてを終えるのに30分近くもかかってしまった。
 今週の収集状況をハラハラする思いで見守っていたら、それぞれの日に無事に収集されていて、胸をなでおろした。
 ようやく次の家庭に引き継ぎを終えた今日、「また別のゴミが放置されている」という妻の通報。信じ難い気持ちで確認に行くと、これまでとは全く別のゴミ(ビールの空き缶)が大量に放置されている。分別されてはいるが、明らかに決められた収集日以外に出されたものだ。

 2週続けての不祥事に、疲労感だけが残った。我が家の周辺にアパートやマンションは一切なく、個人の住宅ばかりである。ルール破りはしにくい環境のはずだが、それでもこのザマだ。
「犯人」はいったい誰か。2度の放置ゴミは同一人物か、あるいは通りすがりの第三者の仕業かと、疑惑だけが膨らむ。
 確かなことは、ごく普通の社会ルールさえ守れない輩が、身近にウロウロしているらしいという事実である。全くユダンならぬ世の中だ。ユダンなどしてないが。

2007年8月16日木曜日

八月の記憶

「八月の記憶」という小説を14年前の43歳のときに書いた。10代後半にはひたすら詩を書いていたが、20代後半にふと思い立って小説を2作書いた。いまだにどちらも好きだが、小説はある周期で突然書きたくなる。
 書き終えた小説はタンスにしまいこむということはほとんどなく、大半はどこかに投稿している。結果はパッとせずとも、第三者の評価が欲しい。私にとって小説は、ただ書いて自己完結するだけの存在ではなかった。


 15年ぶりに書いたこの「八月の記憶」は、過去最高の評価を得た。いま読み返すと、作りの粗い部分も目立つ。だが、小説としての芯は通っていると思う。合評会でプロの作家の方々にも、同様の評価をいただいた。

 小説の舞台は道北の寒村で、私の出身地である幌加内町がモデルになっている。小5の少年が主人公だが、児童文学のようでいて、そうでもない。
 クライマックスは8月のちょうど今頃、小説の主人公とヒロインとの切ない別れのシーンで、実はこのラストを最初に思いつき、そこに突き進む形で小説を書き進めた。
 別れに使った水浴シーンは、合評会でも高い評価を得た。このラストなくして、この小説は成り立たない。
 最近になって、このシーンによく似た設定が登場する映画が作られていることを知った。私の小説の発表がはるかに先だったが、ネットで10年以上も前から公開しているので、そういうこともあるだろう。
 偶然であってもそうでなくても、大監督の考えることよりも先に思いついたことを、むしろ誇りに思いたい。

 写真はそのラストシーンに使われた雨竜川で、10年以上前のやはり8月に故郷を訪れた際に撮った。当時、夏には子供たちがしばしば水浴をした川で、この写真を撮った橋を小説のヒロインである由起子が駈けていった。
 川の右岸にはかって木造の我が家が建っていた。懐かしい古里の記憶である。

2007年8月13日月曜日

買わないエコロジー

 長年使ってきたコーヒーメーカーがついに壊れた。壊れたのは本体ではなく、フィルターカップの蓋で、本体から落ちるお湯を、コーヒーにまんべんなく落とすためのプラスチック円板が割れて脱落してしまったのだ。
 大切に保存してある説明書と保証書を見ると、買ったのは18年前の5月。以降、毎日2回は使っているから、これまで一度も壊れずに、黙々と働いてくれたこと自体が奇跡のようなものだ。
 脱落した部分はプラスチックが劣化し、もはや修復不可能。一時的に食品用のプラスチックトレーを切抜いてはめこみ、代替品としてみたが、熱湯で味が変化てしまい、使えない。
 いよいよ買換えかと覚悟し、ネットで情報収集してみると、容量の大きい最新式の製品が、6,000円弱で買える。
「私がお金を出すわ」と、コーヒー好きの妻は、早くも買い替える気分。しかし、本体には何も問題がないのに、簡単に買い替えてしまうのは、自称「エコロジスト」としては、どうにも抵抗があった。


 妻が寝てしまった深夜、何とか工夫できないかと、あれこれ試す。要するに、熱に変質せず、お湯を均等にふりわける仕組みを考えだせばよいのだ。

 試行錯誤のすえ、アルミ製飲料のスクリューキャップが使えるかもしれないと思い立つ。あててみると、穴の部分に測ったようにピッタリはまる。金属ハサミで加工し、たどりついた形状が写真のようなもの。
 実際にお湯を入れて試してみると、お湯が適度にバラけ、うまくゆく。アルミなので錆びる心配もなく、溶融物質も少ないはず。万一また壊れても、同等品はいくらでも手に入る。
 翌日、本物のコーヒーで試してみたら、以前は3方向だったお湯の分配がさらに細分化されたせいで、むしろ以前より味はよくなった気がする。

 この種の製品はガラスのボトル部分がまず割れてしまうらしい。我が家では18年間、一度も割れなかった。プラスチックの劣化は想定外だが、これは寿命だろう。普通の家庭ならこの時点で、99%買い替える決断を下す。しかし、我が家ではそう簡単にモノを買わないし、買い替えない。
 やたらにモノを買わず、増やさなければ経済活動は鈍化するが、結果的にエネルギーは使わず、ゴミも減少して、ごく身近なエコロジーにつながる。

 しかし、ここまでして使い続ける人は、普通はいない。

2007年8月10日金曜日

ヒッチハイク

 一昨日、仕事の帰りに都心から郊外の自宅にむけ、幹線道路を車で走っていたら、ふと視界に大きな紙を持った人間が飛び込んできた。思わず目をむけると、大きな段ボール紙に書かれた「留萌方面」の大きな文字。さらにその下には、「H大生」の文字。ヒッチハイカーだ。

 するとその若い男、車の私と目があったのを察知してか、車道に向けて一歩踏み出し、両手に持った段ボール紙をいっそう高く掲げてきた。
 一瞬止まろうかとアクセルから足を離す。留萌までは無理でも、札幌郊外の石狩あたりまでなら乗せてやってもいいかなと思った。だが、その日は厳しい仕事の締切に追われていた。しばし躊躇したが、結局止まらなかった。その後家に着くまでの短い時間、さまざまな思いが頭の中をかけめぐった。
 20歳の夏、自転車で日本中を放浪旅行したことがある。同じ時期、ヒッチハイクも2度やった。見知らぬ人々の暖かい思いに、幾度も触れてきた。その経験は、いまの自分を形成する大きな原点ともなっている。だから、同じような志を持った若者にはいまでも気持ちが動く。
 道路や街角で、この種の貧乏旅行をしている若者を見かけると、なるべく声をかけるようにしている。そうすることで、自分が若い頃に見知らぬ人たちからいただいた好意への、わずかなお返しになるような気がしている。

 ところで、ひとつ不可解なのは、前述の青年の紙に添えてあった「H大生」の文字のことだ。H大は地元の有名国立大だが、なぜあえてそんな事を公衆にむけて宣言する必要があったのか。まさか新手のパフォーマンスではあるまい。
 考えられるのは、「私は決してアヤシイものではアリマセン。天下のH大生です」と氏素性を明確にすることで、運転者に安心して止まってもらおうという意図である。
 ヒッチハイクの元祖ともいえるアメリカでは、主に治安面の理由から、ヒッチハイクという行為そのものが危険で、法律で禁止になっているとも聞く。私が放浪の旅を企てた37年前はそんな不安の全くない世であったが、もしかするとこの日本でも、見知らぬ人間を乗せること、見知らぬ車に乗ることが、アブナイ行為になりつつあるのかもしれない。

 見知らぬ青年のおかげで、少しだけ懐かしいキモチに戻った。夏がヒタヒタ駈けてゆく。

2007年8月9日木曜日

ユニバーサル

 壊れてしまったマウスをやっと買い替えた。ネットオークションで中古も探してみたが、マック専用品となると、なぜか新品の汎用品よりもはるかに高い。調べた結果、すべてのOSを問わずに使えるバッファロー製に決めた。
 仕事の打合わせ帰りにヨドバシカメラに行ってみたが、欲しい機種がない。やむなく近隣のヤマダ電機に行くと、こちらには在庫が豊富だった。ポイント値引きやら、カード抽選値引きやらで、わずか1,000円強で入手。
_さっそく試してみたら、マックはOS9、OSXの両方でドライバーなしで作動する。もちろん、Windowsも95からVistaまで問題ない。つまり、自宅にある3台のパソコン全てに使える優れものなのだ。
 世のパソコンの8割以上がWindowsなので、店頭に並んでいるマウスは、Windowsでしか動かないものも多い。効率的に利潤を追求しようとすると、必然的にそうなるのだろう。今回のバッファローの製品は、いわば需要のスキマをねらったものだ。それでも、ユーザーとしてはとてもありがたい。


 写真の右はお役御免となったマックのマウス。クリックがひとつしかないのがマックの大きな特徴で、右利き左利きを問わずに使え、非常に使いやすい。
 今回買った製品はクリックが左右に分かれていて、右利き専用。まん中にホイール機能のダイヤルがついていて、なぜかマックでもすべてが機能する。

 ただ、個人的にクリックを左右でいちいち切り替えるのは好きではない。ひとつのクリックですべてがまかなえるほうが、はるかにユーザー側に立ったデザインのような気がする。
_デザインのあらゆるジャンルで、「ユニバーサル」という概念が浸透しつつある。障害者や高齢者ばかりでなく、老若男女、右利き左利き、背の高い人低い人等々、多様な人々に等しく優しいデザインコンセプトのことだが、まだまだ道は険しい。
 つぶしがきいてたいそう便利な新型マウスだが、現段階ではあくまで予備扱い。スピードを要求されるCGの仕事にはこれまで通り、古いマックのマウスを使うことにする。

2007年8月8日水曜日

お惣菜とデジタル

 妻の職場はごくフツーのスーパーで、担当している仕事はこれまたごくフツーのお惣菜作り。(業界用語で「デリカ」と呼ぶらしい)だが、こんな家事の一部みたいなセクションにも容赦なく、OA化、デジタル化の波はヒタヒタと押し寄せている。

_まず、出勤して職場に入るのに、従来のタイムカードに代る「指紋認証」というゲートをくぐらねばならない。予め登録してある全職員の指紋を認識し、指を画面にあてて勤務時間を正確に記録する手法で、まるで近未来の映画のようだが、街角のスーパーにまでこのようなシステムが導入されているのが現実である。
 そしてごく最近、日々の売上げを本部に報告するのに、それまでの電話による報告が、パソコンでのオンライン報告に変わったという。指紋認証システムは慣れればどうということもないが、こちらはいまだに妻を悩ませている。
 57歳というと、男でも女でもパソコンを使いこなせるか否か、まっ二つに別れる世代だ。妻は元来機械類の扱いは苦手だが、幸いなことに、自宅にある予備のパソコンを使い、親戚や友人、子供たちとのメール交換を何とかこなせるようになった。
 好きな韓流の情報も、日々ネットから得ている。この基礎訓練が、思わぬところで活きた。遊びは決して無駄じゃない。

_いろいろ聞くと、どうやらアウトルックというWindowsの標準メールソフトから本部のメインパソコンに接続し、そこからエクセルという表計算ソフトを起動。決められた支店の決められた部署にその日の売上げを打込み、エンターキーを押せばいいらしい。
 最初は決められた場所にどうしてもたどり着けなかったようだ。聞けば全部で10工程もあるとか。こちらは複雑な手順を記憶に頼らず、メモ用紙に書くことを私が勧め、どうにかクリアした。しかし、数字キーがうまく作動しないとか、ソフトそのものが起動しないとか、いまだにトラブルがある。

 パソコンに詳しい人なら、どうというこもない作業だが、初心者にとっては一大事。時に眠れなくなるほどのストレスで、この気持ちはよく分かる。
「難しいことを少しずつクリアしていくのは、自分を高めること。それはきっと楽しいことだよ」などと、ワカッタようなふりをして、日々なだめている。

2007年8月7日火曜日

寝耳に水

 仕事と遊び両面のハードなスケジュールをどうにか乗り切った。

 昨日はお昼頃にクライアントから電話があり、翌日の午前中納品の約束だった仕事を、夕方までに前倒しできないか?との打診である。
 聞けば、トップの住宅メーカーの会議が早朝開始となったので、資料としてどうしても間に合わせたいとのこと。作業工程が途中でもよいから、何とかして欲しいとの希望である。
 夜にはプロのライブを観に行く予定があったので作業は早めに進めてはいたが、寝耳に水の話だ。半日も納期が詰まると、かなりのオオゴトなのである。

 そこから普段はあまり出さないとっておきの「マジカルパワー」を使い、時間ぎりぎりに2棟分の仕事を完全に仕上げ、どうにか納めた。
 この「マジカルパワー」は、サラリーマンだった時にも、たまに出した。ものすごい集中力を要するので、心身共に疲れる。だから、やたらめったら使うわけにはいかない。
 ちょっと休んで早めの夕食をとり、及川恒平さんと斉藤哲夫さんのジョイントライブに行った。久し振りにプロのライブを観たが、やはりプロはすごい。場のさばきなど、とても参考になった。

 及川恒平さんのライブの終盤、こちらも寝耳に水の話で突然舞台に引きずり出され、「夏・二人で」を3年前の時計台コンサートの折、スタッフだった女性と3人で一緒に歌う羽目になった。以前にも何度か歌わせていただいたが、当時の「勘」は鈍ってなく、ぶっつけ本番の割にはいい感じで歌えた。
 アマであれプロであれ、グループで歌うのはかなりキツいのだけど、グループにはソロには不可能なハーモニーだとか、バランスを取るための息づかいがあり、それを共に乗り越えた喜びがある。昨夜、それを再認識した。懐かしい顔にも会うことができ、楽しい一夜だった。

2007年8月3日金曜日

ギターにも優しい

 札幌は昨日あたりから湿度が異常に高く、外出すると空気が肌にまとわりつくように重く感じられる。雨が降ったり止んだりで、北海道にはないはずの梅雨のような陽気だ。「蝦夷梅雨」という言葉が確かあったが、その名残りかもしれない。

 ネットで調べると、湿度は80%を超えている。試しに自宅にある湿度計を外に出して測ってみたら、ほぼ同じ数値。とある大学の先生からいただいたデジタル式の高価な湿度計なので、信頼度は高い。
 ところが、同じ湿度計を家の中に入れると、たちまち53%に下がってしまう。室温は28度強だが湿度は低く、家の中にいる限り、空気はカラリと乾いた印象である。


 仕事柄、自宅室内の温度や湿度には気を配っていて、細かいデータも定期的に記録してある。材料が定常化してなかった当初の数年間はともかく、最近では冬も夏も通して、湿度は45〜55%の間で安定している。外の条件には、ほとんど左右されない。
 冬の暖房ヒーター以外、クーラーや除湿器、加湿器といった機器類は一切使っていず、換気システムもトイレや台所の局所換気に、動力不要の自然換気(パッシブ換気)を加味しただけである。

 こんなアバウトな条件でも、室内気候条件は極めて安定している。空気の流れをさまたげない単純な間取りと換気径路、そして調湿機能に富んだ自然素材内装にこだわった成果であろう。
 ギターは湿度の変動を極度に嫌い、高過ぎても低過ぎても駄目。調べてみたら、この「湿度45〜55%」という数値は、ギターにとっての理想値らしい。
 エネルギーロスを抑えたパッシブ・エコハウスは、どうやら人間や家計、そして地球だけでなく、ギターにまで優しかったようだ。

2007年8月2日木曜日

分身営業

 数年ぶりに連絡がつき、挨拶にうかがう約束になっていたかってのお客様のところに、昨日ようやく行ってきた。私に急な仕事が入ったために予定が延びたのだったが、怪我の巧妙というのだろうか、この日たまたま辞令が出て、それまでの流通関係の仕事から、新設の不動産部門の責任者として指名されたとのこと。あまりのタイミングのよさに、ただ驚いた。

 以前いた会社では輝かしい経歴を持つ方だが、移籍した今度の会社では、初めて不動産の仕事を手掛けるそう。
「仕事は組織ではなく、人につく」というのが私の持論だが、まるでその時期をピタリ知っていたかのような私の登場であったらしい。この世の巡り合わせとは、本当に不思議なものだと思う。

 営業すべき会社のリストアップからまず始めるそうで、実際の仕事に結びつくまでには、まだまだ時間がかかるだろう。しかし、最新の各種サンプルを持参し、じっくり見ていただいてお墨付きももらった。いずれ形になるのは間違いない。


 明けて今日、昨日おさめた「南欧風豪邸」のクライアントからFAXが届いた。早くも修正がでたのかと思ったら、何と新規の仕事が2棟。しかもこれが、「続・南欧風豪邸」なのである。
 建つ地域も管轄支店も違っていたが、メーカーは同じ。確かめはしなかったが、5日ががりで丁寧に仕上げた作品が生んだ、次なる産物なのかもしれない。

「自分の作品は物言わぬセールスマン」というこれまた私の持論がある。作り主である私がセッセと営業攻勢をかけている間に、私の分身である作品が別の場所で黙々と「営業」をしてくれたのだとしたら、こんな嬉しいことはない。

2007年8月1日水曜日

同志のサクラ

 丸5日近くも費やした「南フランス風豪邸」のメール納品をようやく終えた。昨夜、最終的に仕上がった作品を念のため妻に見せると、「ワーゲンの色がちょっと暗いんじゃない」と予期せぬダメ出し。
 10回も試行錯誤の結果決めた色だったが、2台の車が両方ともシルバー系というのがイタダケないと、手厳しい指摘。なるほどそれも一理あると思い、まだ試してなかった黄色と水色とで、再度出力してみることにした。

 その後いろいろあって、山吹色(濃い黄色)がよいとのお墨付きを得る。要は建物が南欧風なのだから、明るいウキウキした気分があってもいいのではないか?との意見だった。
 シルバー系、黄色、水色と画像を重ね、マウスで瞬時に切替えてみると、違いがはっきり分かる。最初に試したオレンジ色系はどれもイメージがきつ過ぎるが、かといって寒色系はちと寂しい。暖色系でも黄色系なら程よくなじむ。先方に出す前に見てもらってよかった。
 仕事関係の作品は提出前にできるだけ妻に見てもらうようにしている。独りよがりの発想に走ってないかを確かめるためで、今回のように迷いに迷った場合など、特にそうだ。
 一時は助手として私の事業を支えてくれた妻は、デザインに関して素人でも、作品に対する目はそう狂っていない。その意味では一目も二目も置いてる。精魂込めた作品を提出前に見てもらうことで、ある種の連帯感を得る、という別のメリットもたぶんある。

 考えてみれば、私の作るオリジナル曲をまっ先に聴くのも妻だ。そして、妻の評価がパッとしない作品は、お蔵入りの運命にある。
 長い時を共に過ごした、いわゆる「同志のサクラ」なのだ。