2010年10月23日土曜日

長くて短い時間

 小学校の同窓会が都心の京王プラザホテルで催された。およそ同窓会やクラス会と名のつくものに参加したことは一度もなかったが、すでに還暦を越え、人生の総まとめの時期でもある。高校や中学校ではなく、ギャップの大きい小学校の同窓会ということもあって、初めて参加した。
 先生も含め年齢層が高い集まりなので、開始は早めの午後5時。受付に座っていたのは間違いなく同窓生だが、名前は全く思い出せない。名札と座席券をもらって指定された席にむかうと、見覚えのある女性が横にいる。
「T子さんでしょ?」

 東京在住で、この日は不参加と聞いていた、あの懐かしきT子さんだった。聞けば、飛行機とホテルを予約してはるばるやってきたとか。50年ぶりの再会だが、ネット掲載の高校同窓会で近影を見ていたこともあり、すぐにT子さんと分かった。
「誰だか分かりますか?」とこちらが尋ねても、首をひねるばかり。名前を名乗っても、まだよく記憶が蘇らない感じだった。


 ともかくも席に着き、見回すと同じクラスの参加者はわずか5名。全体で生徒39名、先生が3名の参加だから、最も少ない参加クラスである。
 横に座ったのはクラス代表だったA君で、あまり印象が変わっていず、すぐに分かった。他の二人の男子はかなり様子が変わっていて、直ちには判別不能。名札を確認して、ようやく思い出す感じだった。

 担任のI先生にもしばらくぶりにお会いしたが、高齢ということもあり、こちらもすぐには分からなかった。しかし、話が進むうち、じょじょに昔の空気感を取り戻す。
 生徒39名のうち、女子の参加は13名で、男子の半分。結婚で名字が変わっている人が多く、私のような電話帳やネット検索での発見が難しかったらしい。しかし、総勢250名の卒業生のうち、連絡先の分かった方が80名、その半分が参加したというから、50年ぶりとしては上出来であろう。T子さんのように、札幌以外からやってきた人が半数近くもいた。
 一次会は午後7時で終了し、休憩を挟んで同じ場所で二次会という段取り。この二次会の会費も、最初の受付で同時徴収という手際の良さだった。
 全員の自己紹介に卒業時の写真がプロジェクターで表示されたり、一次会終了後の校歌伴奏や記念撮影の準備など、抜かりない幹事の進行に感謝した。

 二次会直前の短い休憩時に、50年近くずっと気になっていたことをT子さんに伝えた。T子さんのピアノ練習の音を、家の外でそっと聴いていたことがあること。中1のとき、同じクラスの複数の男子から、(実はT子さんが好きだ…)と打ち明けられ、当惑したこと。それにまつわる不良とのいざこざのことなど…。
 いまとなってはただ懐かしい思い出ばかりだが、T子さんから届いた年賀状のことだけは黙っていた。するとT子さんのほうから、
「年賀状のやり取りをしてましたよね?」と言われた。なんだ、覚えていてくれたのかと、ちょっとうれしかった。
 二次会を含めてあっという間の4時間が過ぎ、散会。カラオケが持ち込まれることもなく、ただ静かに話すだけだったが、とても楽しい時間を過ごせた。
「菊地君はあまりに変わっていて、どうしても小学校時代のイメージと結びつかない」と最後まで言われ続けたが、喜ぶべきなのか、はたまた悲しむべきなのか?
 参加できなかった方からのメッセージで、「親の介護があって夜間の外出が叶わず、どうしても出席できない」という方が複数いた。そういう年代なのである。

 都合9度の引越にも耐え、大切にとってあったクラスの卒業文集をこの日持参したが、なくした人や存在そのものを忘れている人が大半で、とても驚かれた。
 この時書いた「将来の夢」欄で、私は「一級建築士」と記したが、もう一人だけ同じ「一級建築士」と記したのが、他ならぬクラス代表のA君。驚くべきことにA君もその夢を実現させていて、東京で設計コンサルタントを経営しているという。
 私はその夢のことをずっと覚えていて、日々の励みにしてきたが、A君はすっかり忘れていたらしい。「その文集、ぜひ欲しい」と頼まれ、後日コピーを送る約束を交した。

 あれこれと自分の足跡を確かめた時間、50年の長くて短い時間である。