先生も含め年齢層が高い集まりなので、開始は早めの午後5時。受付に座っていたのは間違いなく同窓生だが、名前は全く思い出せない。名札と座席券をもらって指定された席にむかうと、見覚えのある女性が横にいる。
「T子さんでしょ?」
東京在住で、この日は不参加と聞いていた、あの懐かしきT子さんだった。聞けば、飛行機とホテルを予約してはるばるやってきたとか。50年ぶりの再会だが、ネット掲載の高校同窓会で近影を見ていたこともあり、すぐにT子さんと分かった。
「誰だか分かりますか?」とこちらが尋ねても、首をひねるばかり。名前を名乗っても、まだよく記憶が蘇らない感じだった。
ともかくも席に着き、見回すと同じクラスの参加者はわずか5名。全体で生徒39名、先生が3名の参加だから、最も少ない参加クラスである。
横に座ったのはクラス代表だったA君で、あまり印象が変わっていず、すぐに分かった。他の二人の男子はかなり様子が変わっていて、直ちには判別不能。名札を確認して、ようやく思い出す感じだった。
担任のI先生にもしばらくぶりにお会いしたが、高齢ということもあり、こちらもすぐには分からなかった。しかし、話が進むうち、じょじょに昔の空気感を取り戻す。
生徒39名のうち、女子の参加は13名で、男子の半分。結婚で名字が変わっている人が多く、私のような電話帳やネット検索での発見が難しかったらしい。しかし、総勢250名の卒業生のうち、連絡先の分かった方が80名、その半分が参加したというから、50年ぶりとしては上出来であろう。T子さんのように、札幌以外からやってきた人が半数近くもいた。
一次会は午後7時で終了し、休憩を挟んで同じ場所で二次会という段取り。この二次会の会費も、最初の受付で同時徴収という手際の良さだった。
全員の自己紹介に卒業時の写真がプロジェクターで表示されたり、一次会終了後の校歌伴奏や記念撮影の準備など、抜かりない幹事の進行に感謝した。
二次会直前の短い休憩時に、50年近くずっと気になっていたことをT子さんに伝えた。T子さんのピアノ練習の音を、家の外でそっと聴いていたことがあること。中1のとき、同じクラスの複数の男子から、(実はT子さんが好きだ…)と打ち明けられ、当惑したこと。それにまつわる不良とのいざこざのことなど…。
いまとなってはただ懐かしい思い出ばかりだが、T子さんから届いた年賀状のことだけは黙っていた。するとT子さんのほうから、
「年賀状のやり取りをしてましたよね?」と言われた。なんだ、覚えていてくれたのかと、ちょっとうれしかった。
二次会を含めてあっという間の4時間が過ぎ、散会。カラオケが持ち込まれることもなく、ただ静かに話すだけだったが、とても楽しい時間を過ごせた。
「菊地君はあまりに変わっていて、どうしても小学校時代のイメージと結びつかない」と最後まで言われ続けたが、喜ぶべきなのか、はたまた悲しむべきなのか?
参加できなかった方からのメッセージで、「親の介護があって夜間の外出が叶わず、どうしても出席できない」という方が複数いた。そういう年代なのである。
都合9度の引越にも耐え、大切にとってあったクラスの卒業文集をこの日持参したが、なくした人や存在そのものを忘れている人が大半で、とても驚かれた。
この時書いた「将来の夢」欄で、私は「一級建築士」と記したが、もう一人だけ同じ「一級建築士」と記したのが、他ならぬクラス代表のA君。驚くべきことにA君もその夢を実現させていて、東京で設計コンサルタントを経営しているという。
私はその夢のことをずっと覚えていて、日々の励みにしてきたが、A君はすっかり忘れていたらしい。「その文集、ぜひ欲しい」と頼まれ、後日コピーを送る約束を交した。
あれこれと自分の足跡を確かめた時間、50年の長くて短い時間である。