2014年1月24日金曜日

団塊が消える

 一通の寒中見舞いが先日届き、脱サラ直後に同じアパートの2階に住んでいて、何かと世話になった同年代の奥さんが、突然亡くなったことを知った。昨年の賀状には「またいつか会いたいですね」との添え書きが確かに本人の筆跡であり、そんな予兆も全くなしに、いったいなぜ?

 我が家と同じ3人の子供がいて、長男と先方の長女が同い年。よく一緒に遊び、その子は「大きくなったら、…ちゃんのお嫁さんになる」と言っていたもの。その願いは実現しなかったが、ご主人の仕事の都合で互いの住まいが遠く離れたあとも、ずっと賀状のやりとりは続いていた。
 死因は分からない。残されたご主人とはそう親しくなく、ちょっと電話では確認しずらい。いずれにしても、あまりに若すぎる。
 最近、同年代の有名人や知人の訃報が相次いでいる。いわゆる「団塊の世代」と呼ばれる年代ばかりで、ガンを始めとする突然の病死ばかりである。
 そんな私もつい先日、ガンを宣告されたばかり。転移や再発の検査はこれからで、災がいつ我が身にふりかかってもおかしくない。とても人ごとではない。


 幼き頃より、好むと好まざるとにかかわらず、ずっと競争を強いられてきた団塊世代である。まるで死ぬことまで競っているようだ。
 インスタント食品や肉を多く食すようになったのも我ら団塊世代。そんな食生活のツケが寿命に大きく影響し始めると、予言していた記事をいつかどこかで読んだ。だから、粗食に耐えた大正昭和初期の世代は長生きを謳歌できるが、それに続く団塊世代は、長寿の恩恵は受けないだろうと。

 我が身を振り返ってみても、その可能性は充分に考えられる。上を目指してアクセク働き、現役時代に収めた多額の年金で大正&昭和初期世代の年金生活を支え、いよいよ自分たちが年金世代になったとたん、払った分を受け取ることもなく、早々と死んでしまう。もしかすると、そんな近未来が待ち受けているのかもしれない。
 戦争の落し子である団塊世代、まるで社会的悪者のように扱われることもあるが、そんなものを産んだ社会的背景、つまりは侵略戦争を許したニホンジンの資質そのものに目をむけてみよ。
 早々とこの世から姿を消してしまえば、以降の世代に負担をかけずに済む。誰も文句は言うまいが。