2013年1月15日火曜日

年金浦島

 日本年金機構から連絡があり、5年前に亡くなった父の古い年金記録らしきものが見つかったので、確認をとりたいという。書かれてある情報は年金の種類(厚生年金)と加入脱退年月日のみ。
 記録が非常に古く、昭和17年から20年までの3年半ほど。途中半年間だけ抜けていて、正味3年ほどだった。

 昭和17~20年といえば、私の生まれる7年も前のこと。4人兄弟のうち、まだ上の2人しかこの世にはいない。当時の記録は当然ながら全て紙で、その古い台帳と現存するコンピュータ記録とを突き合わせた結果、父のものらしき記録が見つかったのだという。
 行方不明年金(消えた年金)が世間を賑わして久しいが、地道な作業はその後も延々と続いていたようである。公務とはいえ、さぞかし大変な作業であろう。頭が下がる。


 見つかったそれぞれの記録に関し、わずかでも心当たりがあれば、その加入時期の会社と所在地、あるいは住んでいた住所などの情報を可能な限り記入して返送して欲しい、とある。
 老人ホームにいる母は最近物忘れが激しく、70年以上も前のことを思い出させるのは難しい。しかし、まだ自分が生まれていないこの時期の家族の様子を、なぜか私はよく知っていた。

 幼少のころ、寒い時期に薪ストーブを囲んで、よく父や母に昔のことを尋ねた。父は出稼ぎの大工をしていたが、私が生まれる以前は近くにあったクローム鉱山の軍需工場で、技師として働いていたという。
 大工の腕以外に、父は機械や電気等の幅広い知識と技術があり、社員として重宝されたようだ。終戦と共に外国産の安いクロームが輸入されるようになり、工場は閉鎖された。
 当時住んでいたのは道北の幌加内町政和地区である。駅から4キロほどの山奥にクローム鉱山はあった。私はその軍需工場の社宅で生まれた。
 小学生のころ、閉鎖された鉱山に一度だけ行ったことがある。かって父が働いていた場所を、自分の目で確かめたかった。草深い中に黒い穴がぽっかりと不気味に空いていて、古い木材がかろうじて入口を支えていた。怖くて中に入れず、外から眺めただけで帰った。
 家でそのことを母に話したら、あそこは危ないから2度と行ってはいけない、と静かに諭された。

 見つかった年金記録は年月日から考えて、その鉱山に勤めていた時期のものであることは間違いない。だが、年金機構への提出書類には、なるべく正確な社名と住所を書く必要がある。
 数年前に幌加内町在住の知人経由で「幌加内町史」の最新版を手に入れたことを思い出した。1600ページもある分厚い本で、町民価格の5,000円で譲ってもらった。自分の生まれ育った町の歴史を、ぜひとも知っておきたかった。
 本を開くと、クローム鉱山を経営していた会社の正確な名称もちゃんと記載がある。所在地はかっての私の本籍で、ちょっと長いが、いまでもスラスラと出てくる。この2つを記入して書類は整った。
 念のため連絡先に電話してみたら、仮に認められた場合、父が存命期間中の33年間の年金と、母が受給中の遺族年金の両方が対象となるそうである。

 70年前にすでに厚生年金が存在し、父がそれを粛々と納めていたという事実に驚き、まるで浦島太郎のような不思議な感覚に陥った。
 家族は日頃からよく話し合っておくものだと、しみじみ思った。思いもかけないところでそれが活きるものだとも。