2012年2月7日火曜日

少年の一日はなぜ長い

「少年の一日はなぜ長いか?」という哲学的命題に関し、仕事仲間や取引先の知人、そして家族とよく議論する。家族でこの種の話題に食いつきがよいのは、創造的な仕事に携わっている長女である。
 結論はだいたいいつも決まっていて、「経験したことのある行為は短く感じる」というもの。分かりやすい例をあげると、「知らない場所に初めて行くとき、行きの時間よりも帰りの時間が短く感じるのは、行きは未知だった景色が帰りは既知になるから」というもの。こうした経験は年齢に関わらず、誰でも覚えがあるはずだ。

 少年(少女)時代は経験することが日々新しい発見に満ちていて、学校の勉強でも家の手伝いでも趣味の世界でも、はたまた人間関係でもしかり。同じ24時間でも、生きることに慣れてしまった大人より、体感的には遥かに長く感じるはず。
 時を経て少年は経験を重ね、じょじょに大人になってゆく。あらゆる事象が既知の事柄となり、未知の世界は相対的に減ってゆく。幾度も通った既知の道はもはや新鮮さを失い、新たな発見もなく、変わり映えしない日々のなかで時はじょじょに短く感じられることになる。
 もし万人に均等に与えられた「時」というチャンスをより長く体感したければ、この驚きに満ちた少年の日を常にシミュレートしてやればよい。
 具体的には、手慣れた既知の道ばかりを選ぶことをせず、未知の道を好んで歩くように努めれば、時はより長く感じるはず。たとえば趣味の世界なら、次々と新しい趣味に手を出すのも悪くないが、同じ趣味のなかでも小さな目標を作り続け、日々新しい自分をめざすほうが世界はより深くなり、探究心も長続きする気がする。

 そうした行為は決して楽なものではないが、日々の倦怠に流されることもなく、おそらくは死ぬまで輝きに満ちた人生を送ることが叶うのではないだろうか。
 過去にブログ等で幾度か記したが、「大変なことは楽しいこと」なのである。