作品は展示が終わると解体撤去され、後世に残ることはない。写真や映像で残ったとしても、それは決して「体験」したものではないから、現場に足を運んで実感したものとはかけ離れており、作品が真に存続するのは、体験した人の記憶の中だけである。
最近よく考えるのが、この「インスタレーション型」の音楽だ。CDやDVDで見聞きする音楽は疑似体験に過ぎないから、インスタレーション音楽からは程遠い。ライブが最もそれに近いが、聴き手と歌い手との間に乖離感があると、それもまたインスタレーションからは遠のく。
歌い手と聴き手の距離感が物理的にも感覚的にも近いことが条件で、さまざまな制約を取り去り、その音楽空間を通して歌い手と聴き手とが一体となるのが理想。数年前からいろいろ企画し、実行しつつあるイベントは、ほぼこの「インスタレーション音楽」を目指していることに最近気づいた。
路上ミュージシャンも路上で歌っているうちはこの「インスタレーション音楽」に非常に近い感覚だが、いざ売れ出すと次第に聴き手との空間共有感は遠のいていくだろう。それが商業主義、つまりはカネモウケの悲しき運命なのだ。
で、今日この「インスタレーション型」のライブ企画をひとつ思いついた。通りすがりの人々と空間を共有する路上型だが、出来れば今年の夏にでもやってみたい。
アイデアの断片はかなり以前からあったが、昨日の夕方、妻の友人であるNAOさんとあれこれ議論しているうち、ほぼ方向性が固まった。フィールドは夏の公園で、記憶に残るのは歌い手である私と、そこにたまたま居合わせた人のみ。
飲食物や人生と同じで、ライブも究極的には消えモノ。飲食物は消えて血肉になるが、人生やライブは消えてどこに何を残すのでしょう?