10分ほどの短い作品だが、小さいころに初めて読んだときの、何とも不条理な読後感が、時を経てまたまた蘇った。
原作は芥川龍之介で、アメリカの宗教研究者の作品を元にしているらしい。ストーリーの詳細は省くが、物語の核は、釈迦が極楽から垂らした1本の蜘蛛の糸を昇ってきた罪人のカンダタが、後から続いてくる他の罪人を見つけ、「この糸はオレのものだ!」と叫んだとたん、糸は切れて全員が元の地獄に落ちてしまう、という箇所。
小さいころに感じた不条理感は、(糸は一度だけ善行をしたカンダタだけのもので、他の罪人が理由もなしに利用する権利はないのではないか…?)というもの。この思いは還暦を超えたいまでも変わらない。
正当な主張をしたと思われるカンダタを、他の罪人もろとも再び地獄に落としてしまったのは、絶対的存在である釈迦の判断であろう。ラストシーンで釈迦は悲しい顔をする。その悲しさの正体は何か?
カンダタを始めとする罪人は、人間全体の象徴とみてよい。他を顧みない人間の浅ましさを悲しく感じたというのなら、仮にカンダタが何も叫ばずに極楽にやってきたとしたら、物語はどう展開していたのか?
ここまで考えて、ネットで「蜘蛛の糸」を調べてみたら、同じような不条理を感じた人が他にもいたようだ。
作家の小松左京がパロディとしての「蜘蛛の糸」を作品化していて、カンダタが首尾よく極楽に上がってしまったあとの騒動を面白く描いている。
作家の小松左京がパロディとしての「蜘蛛の糸」を作品化していて、カンダタが首尾よく極楽に上がってしまったあとの騒動を面白く描いている。
(興味ある方は、ウィキペディア「蜘蛛の糸」でお調べを)
これを読んで長年胸につかえていたものがスッと落ちる気がしたが、かといって釈迦が永遠に地獄でうごめき苦しむってのも、別の意味での不条理を覚えないわけではない。
宗教を作り出し、支配しているものはこの世に生きている人間そのものに他ならず、神やホトケの名を借りてあれこれと他をさばこうとすること自体が、愚行そのものではないのか。