少し早めに出て、久しぶりに母の暮らす施設に顔を出す。度重なる大雪の始末やそれに伴う腰痛、思いがけない仕事の山に追われ、すっかりご無沙汰していたが、母は元気で暮らしていた。
遠くから私の顔を見つけ、名前を呼んですぐに近寄ってきた。すでに93歳を超えたが、まだまだ頭もしっかりしていて、足腰も健康。ひとまずは安心である。
40分ほど昔話にふける。高齢者との会話は昔話が一番である。それも懐かしい話を少しだけ持ち出し、「~は覚えている?」と問いかけるのだ。目がいきいきと輝き出す。このあたりのやり取りは、我ながらかなり上手になった。
その足でオーディション会場へと向かう。16時半に妻と合流。すでに14時から始まっていて、今回は15組のパフォーマーがエントリーしていた。
私の出番は15組が終わった17時以降で、審査中の場をつなぐ役だ。私以外にジャグリングの弥勒さん、ミスターきくちさんも参加したが、私は2番目。持ち時間は10分なので、少し前にPAや司会進行の方と簡単な打合せ。入れ換えのロスタイムを最小にするべく、機材を完全に組み立ててスタンバイする。
少し遅れて、17時27分から開始。半年間の活動を総括するべく、短いが親しみのある3曲を選び、曲調のメリハリにも充分配慮した。
「ろくでなし」(シャンソンをリズミカルなストロークで)
「かなりや」(叙情歌をしっとりとアルペジオで)
「ブルーライト・ヨコハマ」(昭和歌謡を楽しいアップテンポ調で)
持ち時間が少ないのでMCはごく短めにしたが、最低限のメッセージは伝えた。聴き手は100名ほどだったが、幸いに途中で席を立つ動きはなく、みなさんじっと聴いてくださった。
モニターがないので、いつものようにおよその勘で歌ったが、客席にいた妻によると、声はよく通っていたそうだ。ラストの曲では自然発生的な手拍子も飛び出し、場の反応はまずまずだったと思う。熱心に聴いてくれる方には、歌いながら目で挨拶を交わすことも忘れなかった。
(以前は歌うのが精一杯だったが、最近はたいての場でこれが出来るようになった)
ラストの曲では、リズムに合わせてギターのネックを小さく振る。これまた最近ときどきやる技で、場を乗せる効果がある。少しずつだが、確かに進歩している。
自宅での練習通り、9分で終了。この日が初披露の新ステージネームも司会者や進行表、自分の看板などで公開されたが、普通に場に馴染んでいて、ちょっと安心した。
しばらくして審査の結果が委員長から発表されたが、合格者は15組中9組、合格率60%という、過去最低の厳しさだった。別の場で知り合った音楽仲間も今回受けていたが、残念ながら落ちていた。歌唱力や独創性は抜群の方で、合格は固いと思っていたので、びっくりした。
音楽系パフォーマーは5組受けたが、合格は継続の2組のみ。新規受験者は全員不合格という、相変わらずのハードルの高さだった。
講評によると、一定レベル以上のパフォーマンス・スキルは当然必要だが、それだけではダメで、通りを往く人々を立ち止まらせて近寄らせ、さらには投げ銭のひとつも置いてゆこうか…、(音楽系ならCDの1枚も買おうか…)という気にさせるような芸、これが審査の基準だったそう。
過去3回のオーディションには全て立ち会っているが、審査基準が次第に厳しくなりつつある印象がする。私は第1回に受けて合格し、その後の実績を積み重ねて更新を続けている立場だが、早めに受けておいてよかった…、と正直思った。
審査基準を噛み砕くと、ある種のサービス精神が芸には必要、ということではないか。
「たとえば人を引き付ける話術とか、客を芸に巻き込む進行とか…」と、審査委員長は具体例を挙げていた。
サービス精神に関しては、過去にも何度かこのブログでふれている。ジャグラーの方はそのあたりのさばきが非常に巧みで、アドリブもうまい。音楽系パフォーマーは歌や楽器にこだわりがちで、聴き手とのコミュニケーションはおしなべて不得手。登録パフォーマーに音楽系が極端に少ない所以か。
私もその例外ではなく、MCはあまりやらずに、もっぱら曲の構成や衣装で不足分を補っているのが現状だ。聴き手を引きつけるMCを、もう少し考えなくてはいけない。
歌以外の要素に必要以上に気配りするのは邪道、という考えもあろう。しかし、そこにこそ通りすがりの人々を対象としたストリートで歌う意味があると私は思う。結局のところ、歌は聴いてもらってナンボの世界である。