2010年9月7日火曜日

古い写真

 先日、同窓会がらみで古いアルバムを引っ張りだした際、袋に入った未整理の写真を多数発見した。裏には撮影年月が書いてあったが、大半が高校時代後半のもの。
 なぜ貼ってないのか自分でも理由が分からず、ずっとそのままにしてあったが、今日それを一気に整理した。

 いろいろ考えたすえ、既存の小学校から高校までのアルバムのリング部分をいったん外し、新たに台紙を作って追加することにした。
 手持ちの用紙を調べた結果、古い紙製フォルダーがほぼ同じ紙質であることを発見。既存のアルバム台紙と同じ大きさに切り、リングの通る丸い穴の部分を鉛筆でなぞって、手持ちのパンチで1個ずつ穴を開けてゆく。
 穴の数が多いので非常に根気のいる作業だが、アルバムの規格が古いので既存の製品は一切使えず、これしか方法がない。


 ついでに古い写真の整理もやったが、いまではほとんど意味のない写真が多数あり、いったい何を考えてこんなくだらない写真を撮ったのかと、しばし自己嫌悪に陥った。
 特に多いのが毎年欠かさず撮っている雪祭りの写真。家族や自分が入っているわけでもなく、ただ雪像だけを延々と撮り続けている。

 自分で育てた花の写真も多数あったが、これも単に花のみで、まるで愛想がない。当時よく見ていたテレビ番組の画面だけを撮った写真もかなりあった。家族や自分、友人以外の写真はもはや無用の長物、思い切って処分した。
 写真を整理して思ったが、中2から高1まではくだらない写真がやたら多く、たまに写っている自分の顔も情けない顔ばかりだ。
 顔は心を写す鏡のようなもの。級友に比べて極端に背が低く、声変わりなどの二次成長も遅れていた時期で、コンプレックスの固まりだった。それが自分の写す写真にまで色濃く反映されている気がする。

 はっきり顔つきが変わり始めたのは、16歳の夏あたりからで、宗谷岬への単独自転車旅行を成功させた直後からだ。眼に光を感じる。身体も少しずつ大きくなり始め、いろいろな意味で自分に自信が出てきた証しだろう。
 寺山修司に感化され、詩を書き始めたのもちょうどこの頃。動画や録音と違って写真は何も語らないが、眺めていると当時の心理までマザマザと蘇ってくる。すべて自分の成長過程のひとつ。たまに眺めると、新しい勇気が湧いてくる気がする。