2010年9月6日月曜日

細部と全体

 先日地区センターで実施のミニミニ演芸会に関する反省会もどき、その2である。当日、応援に来てくれたチロリンさんに指摘されたボーカルとギターの音のアンバランスに関し、妻を含めた複数の聴き手に直接印象を確認した。
 すると、チロリンさん以外の3名はすべて「いい音でした」との評価。ギターとボーカルのアンバランスに関し、重ねて確かめても、「別に気になりませんでしたが…」との反応だった。
 当日のブログでもふれたが、チロリンさんはかって音楽のプロで、音作りに関しては大変厳しく、耳も肥えている。普通の人なら気づかない些細なことでも、敏感に察知してしまう。
 同じようなことが同席したNAOさんにもあって、腹話術の演技に関し、私や妻では全く気づかない細部の問題点を鋭く指摘していた。NAOさんは人形劇を長くやっているので、人形を操ってシナリオに基づいたパフォーマンスを見せる腹話術は、非常に近くて詳しいジャンルなのだろう。
 誰でも自分の専門ジャンルに関しては、フツーの人々とは異なる専門的で深く、厳しい評価を下す。それが人の常だ。


 話が30年前にすっ飛ぶが、若い男女が我が家を訪れた。当時妻はピアノのリチャード・クレイダーマンに夢中で、FM放送の特集を録音したテープを繰り返し聞いていた。
 その音を耳にした女性、初対面だったが、「リチャード・クレイダーマンなんて、ピアニストとしてはたいしたものではないですよ」と出し抜けに言う。私も妻も一瞬ムッとしたが、連れの男性とはそれなりに付き合いがあったので、事を荒立てるわけにもいかず、ハア、ソーデスカ、と恐縮するふりだけして、その場をおさめた。

 その女性は長くピアノを趣味で弾いていて、ピアノに関してはひとかどの意見を持っているらしいことをあとで知ったが、一時的流行だったにせよ、多くの一般大衆が支持している音楽を、ヤッカミともとられかねないウンチクを並べ、あれこれとあげつらうのもどうかと思った。
 どんなジャンルにせよ、芸術系のパフォーマンスを続けていると陥る落とし穴のようなものだが、細部をより専門的に突き詰めるあまり、全体を見失ってしまうことがしばしばある。非常に狭い範囲のマニアックな集団だけが対象ならそれもありかもしれないが、公共性や大衆性が強いジャンルの場合、あくまで広汎な一般人が相手であることを忘れてはならない。
 たとえば公的な場での弾き語りライブなら、10人中7〜8人くらいが「いい」と感じるパフォーマンスであれば、それでよしとすべきではないか。

 10人中10人の満足度を目指すあまり、終わってみれば10人中5人が退屈でアクビをこらえつつ、おざなりの拍手をしていた、などという事態は死んでも避けたい。ハマりやすい罠ではあるが。