2010年8月14日土曜日

T子さんのこと

 先日小学校の同窓会の件で電話をくれたY君とは、何やかにやと30分近くも話してしまったが、「誰それはいま何やっている?」という話になると、故郷や小学校、そして中学校や大学まで同じという関係なので、もはや止まらない。
 必然的に女生徒の話になったが、「C美は覚えてる?」と真っ先にY君が尋ねる。記憶をたどっても全く覚えがなく、知らない、と応えると、あのナンバーワン美人のC美を覚えとらんとは悲しいね、などと責める。
 オイラがはっきり覚えているのは、T子さんだ。いまどうしているか知ってる?と問うと、知ってるも何も、彼女は結婚して東京に住んでいて、東京勤務だった時期は年に一度は同窓会で会っていたという。
 T子さんとは小学校6年、中学校1年と、2年続けて同じクラスだった。父親が地元の国立大教授で、日本建築界の重鎮だったらしい。大学の官舎に住んでいたが、当時はまだ珍しかったピアノが自宅にあり、彼女はかなりの腕前だった。

 官舎は近隣の森の中にあり、友人も多く住んでいたのでよく遊びにいったが、ときどき練習するピアノの音が窓から聞こえてきたりし、じっと耳を澄ませたもの。北野たけし監督の自伝によく似たシーンが登場するが、上品で頭が良く、まさに「深窓の令嬢」という印象の人だった。


 小学校の文化祭があり、6年は選抜チームで合唱をやるという。各クラス男女2名ずつで、5クラスあったから、合計で20名だ。田舎の学校から転校して間もない私だったが、いきなりクラスの代表として指名された。
 その際、伴奏のピアノも先生でなく生徒が弾くことになり、学年から3名が選抜された。その中にT子さんがいた。
 3曲歌ったが、確か「おおブレネリ」が含まれていたと思う。当時の写真があるが、私のすぐ横でピアノを弾くT子さんの姿がある。ちょっと晴れがましいシーンである。

 実はT子さんとの思い出はこれだけではない。そもそもT子さんの名前は、私の長姉と漢字まで全く同じで、転校して最初の父母懇談会に出た母が、「横に座ったT子さんのお母さんから話しかけられた。私の娘と同じ名前で、大学教授一家なんだって」と、エラく興奮していたのをはっきり思い出す。
 クラスの中で言葉を交わしたことは一度もなかったが、その年に彼女から年賀状が届いた。6年生にしては達筆で、母は自分のことのように大喜びしていた。

 中学に入ってからも彼女からは年賀状が届いたと思う。いまほどオープンな時代ではなかったから、年賀状のやり取りは、ある種の心の交流である。
 中学校では彼女に関わる別の懐かしい思い出が2つある。しかし、長くなるのでここには書かない。いずれ時期がくれば書くかもしれないが。
 Y君からの電話後、気になってネットでT子さんのお父さんの名前を検索してみた。すると、Wikipediaにちゃんと載っていて、昨年亡くなっていた。驚くべきことにT子さんのルーツが、秀吉による文禄の役(1592年)の折、朝鮮半島から強制連行されてきた学者だったことを知る。T子さんの姓は極めて珍しく、その事実を裏付けている。
 いわゆる歴史上の人物で、数々の逸話が残されているが、書を得意としていたそうだから、達筆で才知に富んでいた彼女のDNAは、おそらく祖先から受け継がれたものだ。

 Y君との電話のやりとりで、「気になるなら、連絡しようか?メルアド知ってるよ」と言われたが、気持ちに臆するところがあり、ひとまずお断りした。オレのHPに同窓会の写真がある。最近のT子さんも写ってるよ、というので、今日になって教えられたキーワードで検索してみた。
 すると、ありました。間違いなく60歳なんだけど、小学校の雰囲気とあまり変わっていない。いや、むしろカドがとれて柔らかい印象に変わった。いい年のとりかたをしている。ふむふむ、なるほど、そうですか…。

 50年近く前に関わりのあった、ちょっと気になる同級生の姿を確かめられて、何となく穏やかな気分。人はおそらく生きてきたように老いてゆく。