小学校1年からの貴重な写真を妻と二人で見直したが、一瞬にして50年の時を駆け戻った気分。アルバムには細かいメモ書きがあり、これまで確かだと思っていたことに、単純な間違いをいくつか見つけた。
16歳の夏にやった5泊6日の単独自転車旅行の前日、ずっと反対していた父が、母に私への2,000円を託していたことや、修学旅行で見た摩周湖は、実は第1と第3両方の展望台からだったことなど、人間の記憶などあてにならない。
反対に、ほぼ記憶通りだったこともあった。先日のブログに書いた小学校時代の同級生T子さんと合唱発表会で歌った曲には、間違いなく「おおブレネリ」が含まれていて、私の歌うすぐ横で、ピアノを弾くT子さんが確かに写っている。
同じく電話をくれたY君とは、実は中2のときに同じクラスだったことが判明。彼とは確か大学の教養部でも同じクラスで、「ひょっとして札幌H中で同じクラスだったよね?」と言葉を交わしたことを不意に思い出した。(たぶんY君は忘れている)
細部には小さなズレがあるが、大枠での記憶に間違いはなく、ちょっと安心した。「アルバムにメモをする」という妙な性癖が昔からあるが、時を重ねるとかなり役立つものだ。
ついでに、妻の古いアルバムも引っ張りだし、19歳の頃に行ったという道東の旅の「証拠写真」も点検。私の知らない、若くてまるでバンビのような妻の姿がそこにある。
昨夜、「サマータイムマシンブルース」という深夜映画をテレビで見た。よくあるタイムマシン物だが、小さい頃から大好きなジャンルなので、テレビ放映があると欠かさず見る。
今日になって思ったが、過去の写真やビデオ、8ミリなどは、いわば現代人が入手可能なタイムマシンではないか。ただ見るだけで一瞬にして過去にワープできるし、当時の自分の感情まで連鎖的に戻ってきたりする。
写真や映像なので単に見ることはできるが、過去そのものに存在して干渉し、現在を変えることまではできない。そこがSFのタイムマシン物とは決定的に異なる部分だ。
しかし、過去の自分や家族の姿を見ることで、一番大切な「いま」を見直して確かめ、リスタートすることはできそうな気がする。だからたまには昔の写真や映像を家族で眺めましょう。そして「いま」の自分と家族の記録を粛々と残し、後の世に伝えましょう。