その日のテーマはビブラートで、ビブラートをかけて歌う「ビブラート唱法」と、かけずに歌う「ノンビブラート唱法(ノンビブ唱法)」それぞれが持つ意味についての解説である。
細部の表現は違っているかもしれないが、大筋での両者の定義は、以下のようなものだった。
《ビブラート唱法》
歌の世界観を歌い手自身がくみ取り、自分の解釈で聴き手に伝えたいときに、主に用いる。
《ノンビブラート唱法》
歌に潜む世界観を、歌い手自身の解釈ぬきで、そのまま真っすぐに聴き手に伝えたいときに、主に用いる。
庭のムスカリが咲いた |
意識下ではぼんやりと理解していたような気もするが、こうして明確に説明してもらうと、目の前のモヤモヤが晴れたような気分になった。
たとえば演歌歌手やクラシック歌手はビブラートを多用するが、トラディッショナルな旋律という制限下で、歌い手自身の個性を際立たせたいという意識が、その前提になっているように思われる。
ノンビブ唱法の代表例は、ウィーン少年合唱団やユーミンがすぐに思い浮かぶが、そう考えるとなるほどと納得できる。
歌い手としての我が身を冷静に振り返ってみると、基本はノンビブ唱法だが、要所でビブラート唱法を使っていた。
自分の売りは「叙情歌シンガー」であり、あまりこねくり回さず、歌の世界を率直に聴き手に伝えたいと日頃から考えているので、必然的にノンビブ唱法がベースになったのだと思う。
しかし、「ここ」という部分では、ビブラートを使う。ワンポイント的に自己解釈を歌に注入することにより、単なる模倣ではない「どこかちょっと違う自分」を表現しようと考えている。これはカバーでもオリジナルでも同じだ。
幼き頃、合唱部に在籍していた姉が、ビブラートを巧みに操って歌うのが羨ましく、「どうやって歌うのか、教えて」と懇願した記憶がある。姉からの返答は「考えなくても、勝手にそうなる(ビブラートする)」と、突き放したものだった。
時を経て、自在にビブラートのオンオフをコントロール出来るようになった。切り換えの判断はあくまで自分のイメージのみ。これといった基準はない。