Hさんは長く不動産関係の広告に関わっていて、取引先関連で発生する建築関連の様々な図面や資料の仕事を私に回してくれる。私と同年代で、一匹狼的な生き方に引かれ合うものを感じる。
「本を書きたい、出版したい」とHさんは言う。雑談のなかでそんな嗜好を知り、自分の本が世に出るたびにHさんにも差し上げてきた。たとえ自費出版であっても、もし本が公的図書館に収蔵されれば、自分が死しても本は確かな記録として残る。そこが消え物としての広告とは全く違うところだ、と言う。
現実には、自費出版本の全てが公的図書館に収蔵されるわけではなく、そこには当然審査がある。しかし、まず本がなければ勝負にならない。
菊地さんはいいよ、うらやましいな、とHさんは言う。本業の建築だって、設計した家は長く残るものね、と。
Hさんの考えも理解できないわけではないが、正直に書くと、そんな考えから文章を書き始めたわけではない。確かに何冊かの本は図書館に収められていて、私の死後もしばらくは資料として残るであろう。ただ、あくまでそれは結果論である。
さらに言うなら、本が形として残り続けるのも、せいぜい100年ほどか。後世に長く残る名著以外は、いずれ整理されて廃棄の運命を辿る。「生きてきた証」として長く残る本など、ごく一握りに過ぎない。そんな儚い運命は、堅牢そうに見える建築物とて同じことだ。
文章を書く過程で私が思い描くことは、たとえ一時的でも読み手の琴線にふれること。それが読んだ人の記憶に残り、あるいは魂を救済し、その後の生き方暮し方にプラスとなって働いてくれればもっとうれしい。
具体的に何がどうとは説明できないが、過去に読んだ膨大な文章(書き手の有名無名を問わない)のなかで、自分にそうしたプラスの影響を与えてくれたものは数多くあり、それらは目には見えないが、さまざまな形となって自分の精神に及んでいるものと確信する。
その精神は、おそらくはまた別の形となって家族を含めた他の誰かに何らかの手段、たとえば文章や会話などで伝わり、引き継がれているものと信じる。単なるヒマ潰しとしての文章も否定しないが、文章が本来持つ力とはそのようなものだと思う。
もし自分の生きてきた証を後世に伝えようとするなら、目に見える形としてではなく、人々の記憶の断片として脈々と受け継がれてゆく形が、最も確かで持続性が高いのではないか。
文章も確かにその一手段となり得るが、最近考えるのは、歌でも同じことができるのではないか?ということ。後世に歌い継がれる歌を創りだしたり、他者の作った歌を媒体にし、聴き手に文章と同じような働きかけを歌い手としてすることはできそうな気がする。
そのためには具体的にどのような活動を今後すべきか、命つきるまでの方向性がこうして書いているうちに少し見えてきた。