2011年7月31日日曜日

被災地支援ライブに参加

 以前にブログでも少しふれたが、「ALIVEミュージックフェスティバル」という音楽イベントに参加した。東日本大震災被災地支援系のイベントだが、参加条件が「復興に向けたオリジナルのメッセージソングを歌う」という、私にとっては非常に難しいものだった。
 偶然だが、公募を知った直後に完成したオリジナルがあった。大震災以後に初めて出来た曲で、内容的にも公募の主旨にピッタリ合う。運命的な巡り合わせを感じ、急いで仕上げて応募。粗削りだったが、締切までの時間がなく、音源送付がエントリーの必須条件だったので、やむを得ない。
 締切をはるか過ぎても何の連絡もなく、やはり急ごしらえでは無理かと諦めかけた頃、事務局から音源審査を通過したとの連絡があった。担当の方の話だと、イベント要項が新聞掲載になった直後に応募が殺到し、けっこうな倍率だったらしい。
 過去に音源審査は何度か出したことがあるが、通ったり通らなかったり。受け入れ側の好みもあり、なかなかハードルは高いのだ。


 ともかくも予選大会に出る権利は得た。当日は妻に休暇をとってもらい、写真撮影係を強制指名。会場は札幌都心にある音楽ホールで、入ってみるとオープンスタジオのような不思議な造りだった。
 出演は17組中の3番目。リストによると、やはりここでも突出した最高齢参加者で、一番近い方でも50代前半が2名。大半が20~40代の若手で埋まっていた。

 順番からして大して期待はされていない印象だったが、いざ舞台に上がるとけっこう緊張した。エントリー曲は「雲や風と共に」という、やや難解な切り口の内容。
 調整はうまくいったので声はまずまず出ていたが、(暗譜にすべきか、楽譜を見るか…)で最後まで迷ったすえ、念のため楽譜を置く、という中途半端な選択が裏目と出てしまった。
 かなり最初の部分で一瞬歌詞を見失ってしまう。「幸せに…」というごく短い歌詞だったが、ほぼ致命的なミスで、この瞬間に予選通過の目はなくなった。
(後の祭りだが、楽譜ナシで歌っていれば、このミスはなかったかもしれない)


 しかし気持ちはこれで逆に落ち着き、以降は普通に歌えた。終了後に合計7名の審査員のうち、2名の方から講評をいただいたが、「年齢に似合わぬ美しい声」「少し上がってましたが、完成されています。最高でした」と、おおむね好評。
 しかし、こうした場では美辞麗句が並ぶのが通例で、それを真に受けていては勘違いのドツボにはまる。失敗だったのは自分が一番よく知っている。
 心配していた妻の動画撮影は一脚固定がうまくいって手ぶれもなく、おおむね映っていた。しかし、ズームを使わなかった(使えなかった?)関係か、ライブが始まると目まぐるしく動く強烈な照明に翻弄され、カメラの露出が追いきれず、顔が白く飛んでしまっていた。
 始まりの部分だけがバランスよく写っていたので、ここを静止画として切り取り保存。音声はスレテオでクリアに録れていたが、歌詞の欠けているものをネット掲載する気にもなれず、こちらはお蔵入りである。
(気分が変わったら、応募音源をアップするかもしれない)

 細かい問題点はあるにせよ、動画、静止画像、音源の情報が一度に得られるデジカメでのハイビジョン撮影は、記録手段としては悪くないことを今回知った。


 ほぼ全部の出場者の歌を聴いたが、非常にレベルが高い。そして多くの方が暗譜して歌っていた。終了後の講評でも、「決勝大会出場者は、必ず暗譜してきてください。譜面台使用者はそれだけでマイナスポイントです」とあり、この種のイベントはオリジナルは当然として、暗譜もまた常識であるらしい。
 譜面を見て歌うことがアタリマエのようになっていた我が身にとって、非常にショッパイ場であった。
 延べ6時間に及ぶイベント終了後に発表のあった決勝大会進出者6名の中に、当然ながら私の名はなく、多くは20代の前途有望の若者だった。歌った直後の司会者インタビューでも答えたが、60代として参加できたことに意義のあるイベントだったといえよう。よくぞ音源審査が通ったものと感心する。
 しかし、チケットノルマとして負担した費用の一部が被災地に届けられるようだし、イベントそのものが完全に被災地を向いた内容だったので、(オリジナル曲はすべて直接的、間接的に被災地を歌ったもの)その点でも充分に意義があり、満足できるものだった。