厳しい金融不況下なので、本は読みたいが、買う余裕はない。そのままネットで予約をし、辛抱強く待つことにした。
忘れたころ、「貸し出しの順番がきました」と、メールが入った。在庫は遥か離れた地域の図書館だったが、近隣の図書館まで搬送してくれる。便利な世の中である。
すぐに借りてきたが、あいにくネコの手を借りたいほどの忙しさ。「嵐」が去るまでひたすら働き、ようやく一段落したので、妻と交互に読んだ。
この小説は先頃、吉川英治文学賞新人賞に輝いている。前評判もよい。かなり期待してページをめくったが、正直いって拍子抜け。直近に読んだ川上未映子の「乳と卵」と比べると、読後のカタルシスはかなり落ちる。
(あくまで私の場合である)
まず第一に、長過ぎる。全6話、400枚近いが、せいぜい半分もあれば同じことが書けたはず。初稿は別の月刊雑誌に何号かに分けて掲載した関係で、こういう構成になったのかもしれないが、一冊の単行本として読み進むには、冗漫過ぎた。
妻は最初は、「歯切れのいい文体ね」などといって読んでいたはずが、ふと見ると途中で読むのをやめて寝ている。目覚めたあとに「どうしたの?」と尋ねると、
「何だか飽きちゃって」
あらすじとしては、小学校の同窓会の3次会で集まった5人の40代の男女と、似たような年代のマスターが繰り広げるスナック内での会話が中心。会話の中から、それぞれの過去に話題がフィードバックしてゆくという仕掛けで、小説の手法として、取り立てて目新しいものはない。
最も目新しいと思われるのはそのタイトルで、「おや?」「なんだろう?」と気を引かせ、あるいは驚かせるには充分な効果を与えている。このタイトルと斬新な装幀でかなり得をしている。
「田村」は同じ小学校時代の同級生の名で、交通事情のせいで同窓会に遅れてくる彼を、深夜までひたすら待ち続けているという設定だ。
この「田村」という存在は、人生の先がほぼ見えてしまい、生きること、暮すことに疲れを覚え始めている40代の男女にとっての、ある種の「希望の星」「ヨスガ」のような位置づけになっている。
なぜ「希望の星」「ヨスガ」なのかは、本を読めば分かる。
読み終えたあと、話題作なのに、なぜ私たち夫婦はそれほど感動しなかったのかね?と、妻と話し合った。いわば「読後の合評会」のようなもので、こうしたことは我が家ではよくある。
あれこれ意見がでたが、結論としては、「この小説は、同窓会に出席するような価値観の人のために書かれているのではないか?」という推測である。私たち夫婦は、まるで示し合わせたように同窓会の類いには縁がない。(そもそも、案内がこない)二人とも宴会は基本的にキライなのである。
つまり、40歳を過ぎて大昔に卒業した学校の同窓会に足を運ぼうかと考える人は、とりあえず食うには困ってないが、自己の現状には何かしらの閉塞感を懐いているのではないか?ということ。スナックで田村を待ち続ける6人は、まさにこの階層の人々である。
生きること、暮すことに日々追われ、貧しくとも優雅にヒタムキに生きている(と自負している)人々には、「田村」を待つ必要などなく、「田村」は生活のそこかしこにすでに存在するということだ。
身近に「田村」が見当たらない方には、お勧めかもしれない。「感動のラスト」とやらを「感動」と捉えられるか否かの分かれ目も、同じ基準点にあると思われる。
「田村」はいつでもそこにいるよ。