ここまではよくある風景で、そのままツイとすれ違ってしまうのが常。ところがその日に限って、ある不思議な出来事が起こった。すれ違いざまにその子がすっと視線を私に合わせ、何のケレン味もなく「こんにちは」と挨拶してきたからだ。
率直に打ち明けると、不意をつかれた私は一瞬ドギマギした。しかし、瞬時に体勢を立て直し、その子の眼を見つめ返して明るく応じた。
「こんにちは」
10数年前に地域のサッカー少年団のコーチをやっていた頃は、近所を歩いていて顔見知りの子に出会うと、よく挨拶を交した。しかし、子育ても終り、サッカーコーチも引退し、その後家を建てて引越してからは、地域の子供と挨拶をした記憶はない。
つまり、この日は10数年振りの「その日」だったわけで、私が年がいもなくウロタエた理由はそこだ。
ちょっと感動するのは、その子が私の全く知らない子であったこと。相手が私をどこの誰であるか知っていたかどうかは定かではない。しかし、出会った道がおよそ90戸で形成されている閉ざされた街区であったので、おそらくその子は、(近所のオジサンだ)と判断したのだろう。
あとで妻にその出来事を話すと、妻も以前に同じ風貌の女の子に突然道で挨拶されたことがあり、一瞬動揺しつつも、何とか挨拶を返したことがあるという。どうやらその子は、最近の子供に欠けている(つまりは、オトナにも欠けている)「パブリック・スピリッツ(公徳心)」の基礎をしっかり身につけているらしい。
実は私も10歳くらいの頃から、同じように近所の人たちに道で出会うと、欠かさず挨拶をしていた。相手は大人なので、むこうから挨拶してくることはまずないが、どの大人でも必ず挨拶を返してくれて、とてもうれしかった記憶がある。
(心をこめて壁にボールを投げると、同じような優しいボールが必ず返ってくる)といった確信を、人生で初めてつかんだ時期であったかもしれない。
そのような習慣を身につけたきっかけは親ではなく、担任の先生のある言葉だった。
「小学校高学年にもなったら、近所の人に道で出会った時、挨拶するのが当り前の礼儀なんだよ」
自分からすすんで挨拶するという習慣は、間違いなく私を変えた。格好よく言えば、「オトナへの道」を歩み始めたのだと思う。よい事を教わったと、いまでもその先生に感謝している。
黒い服の女の子はどんな気持ちやきっかけから、近所の大人に挨拶する習慣を身につけたのだろうか。その子の心の内をちょっとのぞいてみたい気がする。世の中、悪い芽ばかりが育っているわけじゃないってこと。