ほんの少し前までの日本社会は、生きること暮らすことのために起きている大半の時間を費やし、「余暇」などという概念はなかったと思う。少なくとも私が小学生だった50年くらい前の北海道ではそうだったし、東京で生まれ育った同世代の妻も似たような生活だったと聞く。
私が12歳までを過ごした田舎の地では「専業主婦」という言葉自体が存在せず、結婚した男女は等しく何かしらの勤労をしていて、女はその片手間に家事をこなし、足りない部分は子供たちが補っていた。
中学生になった1960年代頃からサラリーマンなる概念が発生し、電気釜や洗濯機などの家電製品が登場し、「働かないお母さん」つまりは専業主婦なるものが存在し始めたように思う。同時に子供たちは家事を手伝うことをやめ、塾や習い事に勤しみ始めた。
生きるための時間をそう多く使わずに済むようになり、「余暇」とか「レジャー」という暇つぶしや息抜きの時間を意味する言葉が発生したのも、おそらくこの時期から。ある意味での不幸な時代の始まりだ。
余暇やレジャーが明日への活力となる息抜きであるうちはよいが、単なる暇つぶしに成り下がった場合、人は必ずしも幸せにはなれない。
昭和30年代以前から原始時代までの人々は、おそらく食べるために人生の大半の時間を費やしていたはずだが、それは逆に人間として、とても幸せなことだったのではないか。
程度問題だが、「今日は何をやって過ごそう…」と思案に暮れるより、次から次へと生きるため、食べるために、やるべきことが目の前に山積していたほうが精神衛生上も健康上もいいに決まっている。
便利さの追求はほどほどにし、少しの不便さは身体や頭を使うことで補ってやれば、無用の金や資源、そしてエネルギーも消費せず、やるべきこともほどほどに死ぬまであり、幸せな一生を送ることが叶うのではないか。齢62歳を越えたいま、そんなことを考える。