2008年11月27日木曜日

人生の終わり方

 一昨日夜のWさんの歌で気づいたことのひとつに、「曲の終わり方のうまさ」がある。ライブの場合、レコーディングと違ってF.O.などの音響技術は使えないので、終わり方にはいろいろ迷う。歌が終わったあとにギター伴奏であまり引っぱり過ぎるのも考えものだし、唐突にブッツリ切ってしまうのも愛想がない。

 私の場合はギター技術がないせいもあって、曲中のコードを短めにつなぎ、最後にギターをチャラ~ンとかきならし、「終わりです」と言葉に出す。
 聴き手に拍手のタイミングを歌い手自らが告知する、ある意味ではコソクなやり方だが、Wさんの終わり方には、しばしのリード伴奏のあと、ワンコードだけ転調して終わるという洒落た手法が結構あった。

 たとえばCで終わるべきところを、あえてラストにAでワンストローク弾いて終わるのだ。心の中に心地よい余韻が残る。
「いまのラストのコードは何?」と、ライブ中に直接聞いて確かめたりした。自宅ライブならではの出来事だ。


 曲の始め方より、曲の終わり方のほうが難しい気が私にはする。話が突然飛躍するが、人生もこれに似ていて、始まりは誰もが「ふと気づくと、いつの間にか自分がこの世にいた」といった感じではないか。
 人生の最初の記憶は私の場合、せいぜい3歳程度。それもごく断片的であいまいなもので、多少のつながりがある記憶はおよそ5~6歳あたりから。さしずめ私の「人生の始まり」はこの時期である。そこには何の備えや構えも必要なかった。

 これに対して、「人生の終わり方」は、誰しもが思い悩む重大事であろう。何の予告もなしに事故などでプッツリと人生の終わりがやってくる場合も当然あるが、この場合は余韻も備えもあったものでなく、まさに「突然さよなら」で、死への恐怖やら準備が不要なその分、むしろウラヤマしく感じさえする。
 普通に年齢を重ねた場合、ある程度の年になって平均寿命が迫ってくると、死への準備、つまりは「人生の終わり方」を、具体的ではなくても、誰もが意識のどこかに置き始めるだろう。
 先日の地元紙の投稿欄に、興味深い記事が載っていた。60歳過ぎから身の回りの不要品を着々と整理し、死に備えていた実母を振り返るエッセイだった。80歳過ぎに亡くなったその方には、タンスの引き出し2つ分の私物しか残されてなかったという。
 長く生きていれば、意識しようがしまいが、自然に生活の垢はたまる。死んだあとに残るのそれらの品々は、生者にとって想い出深い物ばかりではなく、多くは意味のない芥ガラクタだったりする。残された身内は、長い時間をかけてそれを整理しなくてはならない。そんな話をあちこちで耳にする。これを生きているうちに、そしてボケないうちに、少しでも片づけておけないか。

 50代の半ば、家にあったかなり多くの不要品を処分した。着なくなったサラリーマン時代のスーツを始め、今後使わないであろうスキーセット一式、その他もろもろで、当時乗っていたライトバン一杯に積み込み、処理場に直接持ち込んで安く処分してもらった。
 来年はいよいよ還暦で、つまりは60歳である。無用なものは極力買わず増やさず、「ひとつ買ったらひとつ捨てる」を夫婦ともども生活モットーにしているが、それでも知らぬ間にモノは溜まる。前回の「捨て残し」もある。そろそろ「人生のクリーニング第2弾」をやるべき時期かと、真面目に考えている。