2021年1月11日月曜日

オトナになる儀式

 テレビやネットのニュースで今日が成人式であることを知った。いつまでも明けそうにないコロナ禍のせいで、どの市町村も従来通りの成人式はやれないでいる。
 それでも街の写真店や美容室などは独自の形式でイベントをやっていて、それなりに盛況らしい。晴れ着にマスク姿はいかにも痛々しいが、何もやらないよりはマシということか。


 50年以上前の自分の成人式を思い出してみたが、実は自宅浪人していた19歳、大学合格後の20歳と2度にわたって成人式への出席案内が届いた。住んでいた街の成人式参加資格が異なることによるものだったが、どちらも自分のなかで参加の意義を見い出せず、出席しなかった。
 当時すでに精神の奥深くに根ざしていた反骨精神が深く関わっていた。(押し付けられた儀式になんぞ、振り回されてなるものか)という矜持が、青臭い自分を支えていた。

 それでもちゃんとオトナにはなれた、いや、すでになっていたのだろう。オトナになる儀式は他から押し付けられるものではなく、自分の手で探し出し、育てあげるものだ。
 3人の子供のうち、長男次男は我が反骨精神を受け継いだのか、やはり出席を拒否。自分の価値観を押し付けたわけでなく、それぞれの判断である。自分が普通に成人式に出た妻は、どちらかといえば行かせたかったらしい。
 結果として、成人式に出席したのは長女だけ。晴れ着は妻がヘソクリから20万ほど出してあつらえたという。その晴れ着はいまもそっくり和ダンスの奥深くに眠っているという。日々仕事に追われていた当時は、そんなことも知らずにいた。