母は顔色もよく、元気そう。すぐに私を認識して、正確に名を呼んだ。続けて恒例の記憶力診断をかねた会話。子供の数やらその名前性別など、一通りの設問をクリア。
唯一思い出せなかったのが自分の姓。すらすら答えるのは嫁ぐ前の旧姓で、70年以上も前のことのはずが、いつ尋ねても出てくるのは必ず旧姓のほうだ。
いろいろ話したが、どうやら結婚後の苦労話は全て記憶が薄れているらしく、「嫌なことは全部忘れた」と屈託がない。
覚えているのは自分の子供のことと、結婚前の生活。やがて96歳になる母だが、人生の終盤に差し掛かると、誰もがよい思い出だけを反芻しつつ、暮らしてゆくものなのだろうか。
担当のヘルパーさんと少し話したが、最近出来たばかりのデイサービス部門に誘ったが、母は断ったとか。いつも食堂の一隅でじっと座っているので、介護度の低い利用者と一緒に過ごせるよう、施設側は配慮してくれたらしい。
しかし、母は大勢の中でにぎやかにしているより、一人で過ごすのを好むたちだ。短時間のイベントなら参加するかもしれない。たとえば音楽とか…。といった流れのなかで、実は介護施設で歌うボランティア活動を長年やってまして、もし私が歌うなら母は喜んで参加するでしょう、と伝えた。
すると、ヘルパーさんが信じ難いことを言う。もしかして、トムノさんですか?と。そうです、そのステージ名で活動してます。どこかでお会いしてますか?
昨年別の施設に勤務していたとき、クリスマス会で私の歌を確かに聴いたという。最初に会ったとき、どこか見覚えがある気がしたとも。
長く活動を続けていると、こうした偶然にときどき遭遇する。先日の及川恒平さんライブでの11年ぶりの再会に続く偶然ではないか。
もしかすると面会ついでに、母の施設で歌うことになるかもしれない。亡き父が入院する病院では一度歌ったが、母の施設では未だ歌っていない。実現すれば母も喜ぶだろう。