亡くなる2日前にコロナ封鎖中の施設から容態に関する連絡があり、特別な計らいで短時間の面会を済ませてきたばかり。手を握って「誰だか分かるかい?」と呼びかけると、目を開けて珍しく私の名を呼んだ。
最近は「あんた誰だっけ?」と、顔を思い出せないことも多くなっていて、急な覚醒に胸騒ぎがした。結果としてこれが最後となった。
2日後の昼過ぎ、スーパーで買物を終えた直後に携帯が鳴り、臨終を告げられた。午前中までは職員さんの声掛けにも普通に反応があったという。急に静かになったので不審に思い、調べたら心音が止まっていた。
死因は老衰で、苦しむこともなく、眠るような最後だったという。母が生前に望んでいた通りの形だった。
先月中旬に100歳を迎えたばかり。心の準備は常にあって、狼狽えることはなかった。ただちに施設へと向かい、身内に連絡。かねてから資料を取り寄せておいた近隣の葬儀社に葬儀の依頼をする。
医師である施設長さんの死亡診断書をもらい、16時に葬儀社の方と施設で待ち合わせることになる。葬儀は自宅で家族葬として執り行うことに決めていた。
いったん家に戻って1階居間の西側を片づけ、仮通夜の場所を確保する。再度施設に行って葬儀社と合流。たくさんの職員の方が玄関まで見送りに来てくださり、最後に深々と頭を下げると、挨拶が涙声に変わる自分がいた。
夕方に市内在住の長男がやってくる。相談のすえ、通夜は翌日の16時に、告別式は2日後の9時と決まる。世間は新型コロナウイルスの嵐が吹き荒れていて、遠方の身内は誰も葬儀に参加できない。長距離の移動は感染リスクが高まるので、やむを得ないことだった。
その夜は仮通夜で、長男はいったん自宅に戻った。私は1階に安置された母の横に布団を敷き、あまり眠らずに一晩中心の対話を続けた。
翌朝も早くから葬儀社の関係者が入れ替わりやってきて、ドライアイス交換、葬儀写真の打合せ、供花の飾り付けなどを慌ただしく済ませる。
午後からは住民票のある実家近くの区役所に行って死亡届を提出し、火葬許可証を受け取る。なぜか混雑していて、30分以上も待たされた。マスクをつけていない人が多く、感染が怖いので椅子にも座らず、離れた場所に立ったままでいた。
ようやく終わって実家に立ち寄り、骨上げ以降に使う仏具を袋に詰める。その後近くに住む次姉を車に乗せた。長姉は体調が悪く、参加できない。
15時過ぎに自宅に戻ると、西の窓際に立派な祭壇と障子衝立が設営されている。湯灌を終えた母は、すでにお棺の中にいた。予定通りお坊さんがやってきて、16時から読経開始。祭壇には四十九日まで使う母の法名が記された木の位牌があった。
母は寺の娘なので、生まれたときから法名(他宗の戒名に相当)が決まっていて、幼き頃からずっとその存在を聞かされていた。
実家の仏壇引き出しにしまってあることを知り、亡くなる2日前に100年前の古い書き付けを持ってきたばかり。万一に備えて、葬儀用の写真も同時に選んできた。間に合ってよかった…。
4人の身内と葬儀社の女性担当者(湯灌師の資格があり、とてもよくしていただいた)、それに僧侶を加えた6人だけのつましい通夜だったが、倹約家だった母には相応しいものだった。
公共交通機関で帰ると言い張る次姉を説得し、車で自宅まで送り届けることにする。次姉も高齢なので、感染リスクの高い移動は極力避けるべきだった。
家に戻って今夜は泊まるという長男、そして妻と3人で夕食。通夜らしく、お酒も少し飲む。食卓は居間の東側にずらしただけなので、母は間近にいた。
この夜も私だけは母の横に布団を敷く。早めに床についたが、気が高ぶっていてなかなか寝つけない。4時間ほど眠って夜が明けた。
翌日8時に長姉の夫から電話がある。告別式に出たいが、道に迷ったという。急ぎ車で迎えに行った。具合の悪い長姉に変わって参列してくれるとのこと。今日は次姉が来られず、長男と妻の3人だけで執り行うつもりでいたので心強かった。
やがて葬儀社の方がやってきて、葬儀費用の支払いを済ませる。家族葬をベースにしている会社のせいか、12年前の父の葬儀費用よりも安い。それでいて、体裁は父のとき以上に整っていた。よい葬儀社に巡り会えた。
9時前に僧侶がやってきて、10分ほど早く読経が始まる。30分弱で滞りなく終了し、ただちに祭壇を解体して搬出。棺の蓋を開けて副葬品(花、家族と父の写真、百寿の表彰状、法名の書き付け、菓子など)を入れつつ、最後のお別れをした。
唇に薄く紅をさされた母の顔は穏やかで美しく、まるで生きているよう。「お母さん、きれいよ」との妻の呼びかけに、思わず熱いものがこみあげる。「がんばった、がんばった」と声をかけるのが精一杯だった。
自宅から車で30分ほどの火葬場に向かい、10時半から火葬が始まる。11時50分に終わって、身内の4人で骨上げ。
この日は全部で20体強の火葬があったが、コロナ禍のせいか、どの家も参列者は少なかった。
小さくなった母を長男に抱かせ、家に戻ってささやかな祭壇を作る。お線香をあげてようやく全てが終わった。少し慌ただしくはあったが、うまい具合に雪も解けて雨も降らず、恵まれた条件の中で無事に葬儀を執り行えた。
欧米では看取りはもちろん、葬儀も満足にやれずに病院からただちに火葬される事態になっているという。そうした未曾有の世界情勢のなかで、普通に母を見送ることができたのは幸いだった。
丸10年にも及ぶ長い介護で、入院も10回近く。長男としての責務を無事に果たし、ようやく肩の荷が降りた気持ちでいる。かねてから自分に課していた「親よりも先に死ねない」という願いも、どうにか達成できた。
諸手続きや実家の片づけなど、やるべきことはまだ山のように残っていて、当分は忙殺されそうだが、しばし心を休めることにしたい。