2007年9月30日日曜日

山あり谷あり

 昨日は朝7時に起き、夜10時に寝た。私にしては極めて稀な、ほとんど小学生のような規則正しい生活モード。というのも、昨年完成した住宅の1年点検をかねた改修工事に、終日立会ったからだ。身も心も疲れきり、ブログを記す気力は残っていなかった。
 大工さんの朝、つまりは現場の始まりは早い。陽が昇ると働きだし、沈むと道具を片づけて家に帰り、風呂に入って酒を飲み、メシを食って眠る。そんな人間の基本的な生活パターンを、ひさびさに味わった。気分は悪くない。

 もうひと冬、様子を見なくてはならないが、改修工事はほぼ予定通りにうまくいった。問題の原因を丹念に探り出し、改修のメドをつけ、具体的な対策をたてて図面を引くが、事がアタマで考えた通りに運ぶとは限らない。
 時には現場で方針変更の即断を迫られることもある。終日現場に張りついた理由はそれだが、今回に限れば、図面と現場の大きなズレはなかった。
 この1年以上、いろいろと悩まされた事象のすべてに、昨日で一定の方向づけがなされたと思う。辛く、苦しい道のりであったが、投げ捨てずにねばり強く対処した。ホロスコープ(星占い)にも出ているが、負の循環に終止符が打たれ、どん底は脱したと信じたい。
 まだ振り返るのは早過ぎるが、今回の底は脱サラ独立後25年で最大のものであったかもしれない。たった独りで事業を切り盛りすること自体、山や谷の連続が宿命で、いちいちそこから逃げたりメゲたり驚いたりしていては、自由業など勤まらない。

 還暦を目前に控えて、よい勉強をした。次の谷がきても、あわてずに対処できるかな?

2007年9月27日木曜日

新聞のチカラ

 10年振りにチャレンジした新聞投稿が無事に採用となり、今朝の地元紙に載った。

 実はかっては「投稿魔」であった。始めたのは21歳からで、以来全国紙も含めた新聞はもとより、雑誌やミニコミ紙に至るまで、100件を超す掲載実績がある。
 全国発売誌の場合、体験記の類いが掲載されると、謝礼は数万円になることもある。一時は結構な小遣い稼ぎの手段であった。
 採用率は非常に高い、というより、ほとんどボツになった記憶がない。文章力を磨き、やがては本を出すまでに至ったのは、この投稿による力が大きい。
 投稿にはちょっとしたコツがあり、そのツボさえ押さえれば、採用の確率は飛躍的に高まる。一言で書くと、掲載媒体のニーズに合った文章を書くことだ。文章の基本的な構成力が不可欠なのは当然だが。
 たとえば今回の投稿は、水道料金体系に関する提言である。1枚の領収書から、「家計費節約」「環境、資源保護」「社会的不公平感」にまで思いを巡らせている。単なる「オヤジの遠吠え」に留まらず、視線をそこから水平に広げる。このあたりがツボである。

 ネットの普及で、誰もがも簡単に自分の意見を言える時代になった。基本的にはよいことだと思うが、ブログなどのネット媒体の場合、チェック機能がない。多くの場合、執筆者の本名はおろか、素性さえ分からない。そこにあるのは「自分」という名のフィルターのみで、ここがときに甘さにつながる。

 今やアナログ媒体の代表のような新聞だが、各紙によって微妙なスタンスの違いこそあれ、厳しいフィルターは紛れもなく存在する。記者の記事も含め、紙面に載るのは、このフィルターをくぐり抜けた文章だけだ。
「ニュースはネットで読むから、新聞は読まない」という人々が、特に若年層で増えていて、私の子供たちもそうである。しかし、新聞が未来に生き残る余地があるとするなら、この「選ばれた文章」という部分だろうか。
 過去の私の投稿がきっかけで、社会的な不公平や問題点が是正されたことが幾度もあった。ブログや日記でいくら吠えたとしても、社会を動かすパワーになることは、いまのところ難しい。しかし、新聞ならその可能性は高まる。それは第三者の視点が中間に介在するからだ。
 今回の投稿はいつも私がこのブログで書いていることの延長に過ぎないが、新聞に載ったことで、その必殺パワーが発揮されることを期待しよう。

2007年9月26日水曜日

水害の記憶

 夏だったか秋だったのか、記憶はあいまいだ。私の故郷である道北の幌加内町に住んでいた頃のことだ。
 猛烈な雨台風に襲われ、家のすぐそばを流れていた雨竜川(写真参照)が氾濫する危険性があるとのことで、増水する前に高台にある近所のイワモトさんという家に、家族で避難することになった。

 子供4人と母で向ったが、出稼ぎの大工であった父がたまたま家にいて、父だけが避難せずに家に残るという。
 その地はしばしば水害に見舞われ、以前にも増水した川を、家一軒が丸ごと流されて行く信じ難い光景を目の当たりにしていた。私は自分のことよりも父が気掛かりでならなかったが、3人の姉や母は特に心配する様子もない。


 ひどい雨は夕方には小降りになったが、本格的な増水は雨が止んだあとにやってくる。その夜は同年代の子供がいるイワモトさんの家で、修学旅行のような一夜を過ごす。多少浮ついた気持ちもあり、父のことはいつの間にか忘れ去っていた。

 夕食後、大きな竹のザルに盛られた真っ赤なイチゴが振る舞われた。当時イチゴはめったに食べられない貴重な果物で、田舎暮しの子供にとっては宝石に等しい価値があった。
 もしこの記憶が正しいとすると、季節は秋ではなく、おそらく夏であろう。
(その後の調べで、1955年7月3日の「雨竜川大洪水」と思われる)
 一夜明けて父の事を思い出し、外に出た。雨は上がっていて、高台にあるイワモトさんの家からは自宅がすっかり見渡せる。
 すると川の氾濫であたり一面が湖と化し、愛しき我が家は流されもせず、その広大な湖のまん中に、心細気にポツンと孤立している。父は紛れもなくその湖の中に一人いた。私はいまにも泣き出しそうな不安に襲われた。
 ラジオのニュースでは、増水は峠を越えたと告げている。大丈夫だよ、と誰かがいい、その通り午後になると水はみるみる引いて、空はカラリと晴れ上がった。

 家に戻ると、父は無事でいた。夜に水がヒタヒタと床下に迫る音が聞こえ、さすがの父も眠れぬ一夜を過ごしたという。
 当時の家は河原の大きな石を並べ、その上に土台を置くだけの簡単な構造だった。現在のように家がコンクリート基礎に固定されていないから、家の重みよりも浮力が勝ると、簡単に流される。
 どのような動機からだったかは定かではないが、増水する水の中で一人家に留まることを選んだ父に、何か大きな存在を感じた遠い日の記憶。

2007年9月23日日曜日

歌で泣く

 休み明けまでに納品しなくてはならない仕事に、終日追われた。苦手だったはずの室内パースの仕事で、月初めに納めた3点の評判が悪くなく、その追加パターンである。苦手と決めつけず、何でもやってみるものだ。またひとつ自分の幅が広がった気がする。
 今回の仕事は居間の一角を表現するもので、装飾タイプの窓縁やペチカ、ロココ調のスタンドなど、難しい注文が多い。添付されてきた参考写真を見つつ、コツコツとデータを拾っているが、ペチカひとつで2時間もかかってしまった。
 昨日無事に済ませたデイケアセンターでの訪問ライブの様子を簡単に報告。初めての会場だったが、いくつか成果があった。

 まず、初めて歌った「高原列車は行く」は使える。しかも、相当強力な曲であった。思いきってアタマ(1曲目)で歌ってみたが、冒険は吉とでた。
 2曲目以降、「里の秋」「旅愁」「踊子」「バラが咲いた」と、得意の叙情系の曲を連発したところ、会場が水を打ったように静まり返り、「バラが咲いた」の終り近くになって、数名の女性が泣き出してしまった。もちろん感動の涙だったが、この種の歌で泣かれたのは初めての経験なので、正直あわてた。
(ちなみに、歌っている私は全く泣いていない)


 その後、湿った空気を一掃するべく、予定を大幅に変えてニギヤカ系の曲を連発したが、いろいろと忙しいライブであった。

 自分の歌で泣いていただくのは大変ありがたく、ある意味では歌い手名利につきるのだが、「ナキ」の時間があまりに早過ぎた。ライブ全体からみれば、失態だったかもしれない。ライブの難しさを、またまた痛感。終りなき道である。

2007年9月20日木曜日

夜遊び

 昨夜遅く、仕事の間隙をぬって、平日夜のライブを断行。午後8時半開始の予定だったが、開始前に「何とか開始を遅らせて」といった主旨の電話が何本か入り、私が担当のミニライブ開始は45分遅れの9時15分となった。

 お店として最初の「弾き語り酒場」ということで、マスターも人集めに腐心したかいあって、集まったのは10数名という結構な人数。顔見知りのメンバーの他に、苫小牧や函館からも初めての参加者がいた。
 女性の弾き語りが2名。ピアノの弾き語りが1名。オリジナルを歌った方も数名。みなさん、うまいです。レベル高いです。
 いつものクセで、出だしで少しあがった感じ。脚がちょっと震えてた。ライブハウスってのは、何度歌ってもあがる。1曲目はデリケートなアルペジオ調の曲より、ストロークでガンガン弾ける曲のほうが無難かも?今後の課題。
 3曲目あたりから落着いて、ようやく聴き手の様子を見る余裕が出てきた。まだまだ修行が足りん。ただ、全曲オリジナルという難しい構成の割に、会場からの反応は悪くなかった。

 アンコールを含めて8曲歌わせてもらい、場の始まりの空気を作るオープニングアクトとしての役目は充分果たせたと思う。


 あれこれあって、ライブの終了が12時過ぎ。この夜、途切れることなく歌われた曲は、全部で40曲近かった。その後の雑談を終えて店を出たのが、1時半。家に戻ってようやくビールを飲み、(車で行ったのでずっと酒ナシ)寝たのが3時半過ぎ。
 予定が詰まっているので、今朝も早めに起きて仕事に励んだ。「よく遊び、よく働き」だ。参加者の中ではおそらく最高齢と思われ、夜遊びにも体力が必要である。あと、お金も少しね。

 ネットでいつも情報交換している音楽仲間に、週2回ペースでこの種のライブ活動をしている人がいる。年齢は私より少し若いが、よく体力がもつものだと、まずそこに感心する。歌ってるだけでなく、基本である身体も鍛えないとイカンですな。

2007年9月17日月曜日

あってなきがごと

 連休最終日。「やるべきリスト」のうち、二つを何とかやり終える。

 8年間ほったらかしだった換気フードは、ハシゴに昇ってカバーを外してみると、防虫網が相当の汚れ。埃と油で完全目詰まり寸前である。
 すべて外して洗剤でていねいに洗う。ついでにカバーの下端に雨水抜きの小さな穴を開ける。完全に元に戻すのに3ケ所で2時間近くもかかった。
 自分でやればお金はかからないが、手間はかなりかかる。暇だからいいけど。
 その後、明後日夜のライブに備えてみっちり練習。構成は完全に決めたはずだったが、後半にラブソングを2曲続けるのが、自分でちょっとギモンになってきた。甘ったるい歌を続けるのは、もしかすると聴き手にとっては辛いのかもしれない。

 ちょうど作り終えたばかりの曲があり、こちらは人生を見つめる女性視点の歌。35年前に作った曲のリメイクだが、メロディを大胆に変えたせいで、ほとんど新曲と変わらぬ仕上がり。もう少し考えてみるが、本番ではこちらを歌うかもしれない。
 予定はあってないようなものであるのが、ライブの面白さである。

2007年9月12日水曜日

心に響く

 昨夜、NHKの「歌謡コンサート」をぼんやり観ていたら、後半になってスラリとした細身の女性歌手がギターを抱えて現れ、歌い始めた。
 先頃亡くなった阿久悠氏の作詞による「聖橋で」という知らない曲だったが、聴き進むうち、ぐいぐい引込まれた。あわてて途中で歌手名とタイトルをメモする。

 フォークギターでの弾き語りだが、演歌風でもあり、歌謡曲風でもあり、どこかフォークの匂いもする不思議な曲調だった。
 とにかく上手い。上手いだけの歌い手ならいくらでもいるが、この歌手には歌に最も大切な「歌心」があった。心にずんと響くのである。ラストの一節、
「二年二ヶ月二日目に ここで逢いましょう 聖橋で…」のところで、自然に涙が流れた。初めて聴く歌手が歌う初めて聴く曲で泣けるのは、極めて稀なこと。

 1番を終えて傍らの妻を見ると、妻も同じ気持ちだったようで、ハラハラと涙を流している。この夜、会場から彼女に与えられた拍手にも、他とは違う特別なものを感じた。

「雨上がり 露草ゆれる 軒の下」

 終了後、さっそくネットで情報を集める。「あさみちゆき」という歌手だが、「公園の歌姫」というキャッチコピーで売り出し中だった。井の頭公園での定期的な路上ライブで注目されたらしい。いまでも路上を続けていて、オリジナル曲も多数持っている。そういえばいつかどこかで聞いた名であった。
 新人ながら生本番でも動じない度胸と、いまどき珍しい演歌風の弾き語りギター。なるほどと納得した。

 どんなに優れた詩や曲に巡り会ったとしても、それをくみ取る歌い手の心がなければ、聴き手の琴線を揺さぶることはできない。歌心を磨くには、歌の技術やギターのテクニックを磨くのとは、全く別次元の修練が必要だと私は思う。
 それは人の心の裏側に潜む、ささやかでつましいものに思いを馳せる心を育てることではないか。一朝一夕で備わるようなシロモノではない。魂を揺さぶられる歌い手に、また一人巡り会った。

2007年9月11日火曜日

ボランティア

 1週間ほど前、下旬に訪問ライブをやる予定のデイサービスに打合せに行った。初めての会場の場合、要請があれば下調査をかねて顔合せに出向く。
 息子のような若い担当者から、「菊地さんは以前、子供のサッカー指導のボランティアもされていたんですね」と言われた。今回のライブはホームページを見ての要請で、ライブ活動以外に載っている過去の私の活動にも、目を通してくれたようだ。

「どのくらいやっていたのか」「なぜボランティア活動に興味があるのか」「どうしてサッカーからライブに変わったのか」等々、質問は矢継ぎ早。
 若い人が自分とその活動(生きざま)に興味を持ってくれるのは、我が子以外にも何かしらの生きてきたアカシをこの世に残し、伝えたいという大それた望みを真面目に思い描いている身としては、素直にうれしい。

 もしかするとその青年は、理想に燃えて「介護」という世界の真っただ中に身を投じたのかもしれない。だとすればその姿は、熱い志を抱いてエコロジー産業に飛び込んだ若き日の自分の姿と、どこか重なる。
 質問には真面目に答えたが、まだ全てを語るわけにはいかない内容もある。そもそも私自身、自分が果たして「ボランティア活動」をやっているのか否か、はっきりしない部分がまだあるのだ。
 世間の目から見ればそう見えるのかもしれないが、自分としてはあくまで自身の楽しみの延長としてやっている。お祭りのステージやライブハウス、そして路上で歌っている楽しさや厳しさと、介護施設でのそれとに、大きな差はない。これは地域の子供に9年間サッカー指導をやっていたときと、全く同じ心境だ。

 経験的に、「私はボランティア活動をやってマス」という気負いや奢りを捨て、「あくまで自分の楽しみの延長」と認識していたほうが力が抜けて長続きする気がする。
 周囲に喜んでもらえるのは、最後の結果に過ぎない。もしかすると一番救われているのは、自分自身なのかもしれぬ。

2007年9月9日日曜日

換気フードからの雨水

 先日の台風のとき、風呂に入ろうとトイレを開けたら、換気扇から一筋の水が壁を伝っている。以前にも書いたが、我が家は段ボールに近いような特殊な素材の壁材を使っている。エコロジーで安価である反面、水や火には弱い。
 問題ははっきりしていた。換気扇の外に取付けられた換気フードから、雨が流れこんできているのだ。
 新築当初、西側の換気フードで同じような問題が一度だけ起きたことがある。我が家には合計8ケ所の換気フードが東西にあるが、雨水の逆流が起きたのはこの時だけで、しかも西側の2ケ所のみ。東側にある6ケ所の換気フードは、この8年で一度も問題は起きていない。

 換気フードの構造は写真のようになっていて、壁と平行な円板が出口についているタイプ。横風に強く、デザイン的にも優れているので、当時まだあまりなかったこのタイプを使った。
 しかし、正面からの風には強くとも、斜め上や横から吹きつける激しい風雨には弱い。ガラリの間から雨水が侵入してしまうことがあるのだ。風雨が長く続くと、それが室内にじわじわ流れてくる。
 カタログ等にはその種の危険性があるとの記述は一切なく、実際に自分の家で使ってみて初めて、このような問題があることが分かった。


 原因が分かっていたので、カッパを着てすぐに外に出て、応急処置としてフード上部にタオルを詰めた。
 トイレの換気扇には配置の都合で、外壁に至るまで約1メートルの横管がある。その内部にたまった雨水が流れ出るまでしばしの時間を要したが、雨水の侵入はやがて止まった。
 翌日、端材を見繕って雨水侵入防止カバーを作った。(写真下)カンナで微調整して隙間を全くなくしたので、タオルと同等の効果があるはずだ。
 上半分の径路がなくなったので、出口部分での空気抵抗は多少増えるが、常時換気はしていないので、そう大きな問題ではない。

 新築当初の問題発生以降、その後設計を手がけた家には、多少値は張るが、上部が完全に閉ざされた別タイプの製品を使っている。問題が起きた製品はいまでもごく普通に使われているが、事情をよく知らずに使うと、痛い目に合う。

2007年9月7日金曜日

 久々に仕事のない週末を過ごせそうで、午後から妻の買物につき合った。行き先は都心にやや近いスーパー・イオン。デパートまでとはいかないが、食料品以外の品が豊富にそろっていて、価格もそれなり。ほとんどの用はここで足りる。

 店内を散策中、ある光景に出くわした。
 2歳くらいの女の子が、売場のスタンドに並んだ菓子に興味を示し、手にとったが、母親が先にゆくので元に戻して母親を追った。ところが菓子はスタンドにうまく乗らず、床に落ちた。ちょうどその横を妻と私が通りかかった。
(どうしようか…)と一瞬思い、母子の様子をうかがった。その子がそのまま立ち去るなら、自分が拾って元に戻してやろうと考えたのだ。

 どこの誰だか分からないヨソの子が落とした菓子など、床に落ちてつぶれてしまおうが、知ったコッチャないのかもしれない。だが、私は物事をそんなふうに考えられない、困った気質である。
(あとで聞いたら、妻も全く同じことを考えたそうだ。まさに似たもの同士)

 ところが、20代後半かと思われる若き母親、走り寄る我が子を、ややコワイ顔で押しとどめた。
「そのお菓子、元にもどしなさい」
 女の子は振り返って自分のした事に気づき、素直に言葉に従った。母親は手を貸さず、少し離れた場所からそれをじっと見守っている。
 ちょっといいモノを見た気がした。若き母親は幼き我が子に、社会人として生きて行くうえで大切な幾つかの事柄を、確実に伝えていた。
「公徳心」「自己責任」「自立心」「親子の信頼関係」等々…。
 おそらくそれは、若き母親が、そのまた母(あるいは父)から教えられたものだ。そしてその親は、またその親から、いつかどこかで同じ価値観を分け与えてもらっている。

 躾とはそのように、人から人へとひそかに伝えられてゆくべきもので、どこかで断ち切ってしまってはならないものだ。以前は親のみならず、社会全体がその大切な役目を果たしていたが、今や社会はカネもうけに忙しく、それどころではない。
 期待できるのはもはや親だけと成り果てたが、その親さえも危ういという、オソロシイ時代なのである。
「オレたちは、あの母親みたいな子育てをしてきたよな」と、帰り道の車の中で妻と話合った。いまのところ、その結果らしきものはちゃんと出ている。それで良かったのだ。

2007年9月6日木曜日

夜のアザミ

 散歩の途中、川べりの土手に咲くアザミの花を見つけた。夏に咲いていた種類よりずっと小振りで、いかにも楚々としている。
「やはり野に置けレンゲ草」というコトワザもあるが、ついフラフラと一枝だけ折って、窓辺の竹筒に飾った。

 この種の花を飾るのは、ほとんど私の役目。庭に少しだけある花の手入れも、すべて私がやる。日本では花を植えたり飾ったりするのは女性の役目のようになっているが、外国ではそんなことはないはずだ。こんなところにも、男女性差別意識(ジェンダー)は根強く息づいている。


 写真はそのアザミ。アザミにもいろいろ種類があるらしく、おそらくこれはチシマアザミではないか。雑事に追われて昼間に写す時間がなく、夜に撮った。左にあるトマトは、家庭菜園で採れたもの。採って数日ここに置いておき、熟したら順に食べる。夜の窓辺も、昼間にはない独特の味わいがある。
 背後のガラス窓に映っているのはオバケじゃなく、カメラを構えた私自身であります。
 ところで、田舎に住んでいた幼い頃、春になるとアザミの葉を採って食べた記憶がある。アクが強く、トゲに気をつけなくてはならないが、山菜として立派に食べられるのだ。
 普通に茹でてかつお節をのせ、おひたしで食べる。ちょっとピリッとした味で、非常にうまい。札幌に引越してからは食べたことがない。札幌のへき地である我が家周辺はアザミの宝庫でもあるので、来春見つけたら、懐かしく食べてみようかな。

2007年9月5日水曜日

勝者と敗者の方程式

 つい先日のネットニュースで、「勝者と敗者の違い」という面白い記事が紹介されていた。原案はスタンフォード大学の学生が書いたもので、それを日本語に訳し、ブログに掲載しているのだが、これが実によくできている。
 人サマが作ったものをブログネタにはあまりしたくないのだが、今回だけは別。内容はおよそこんな感じである。
・勝者は事がうまく運んだとき、(自分は運がよかった)と考え、敗者は(自分に実力があったからだ)と考える。
・勝者は事がうまくいかないとき、(自分が悪いからだ)と言い、敗者は(周りが悪いからだ)と考える。(一部変更して書いてます)

 この記述の面白いところは、勝者と敗者の基準があいまいで、よく分からないところ。どうやらカネや名誉のことだけを言っているのではないようだ。世間を目下騒がせている「勝ち組」「負け組」の意味合いともちょっと違っている。
 しかも、この記述に対するさまざまなコメントを読んでいると、それだけでその人が勝者か敗者か分かってしまう、という別の面白さがある。味なことをやってくれる。
 二番煎じだが、私も真似して幾つか考えてみた。

・勝者は黙っていても周りが認めてくれるが、敗者は自ら目立とうと必死でモガく。
・勝者は良い時には(次は悪くなるかも…)と気を引き締め、敗者は良い時がいつまでも続くと考える。
・勝者は悪い時には(今が底だ)と明日を考え、敗者は(自分はもうダメだ…)と絶望する。
・勝者の周りには自然に仕事が集まってくる。敗者は少しでも自分の仕事が減るよう逃げ回る。
・勝者はまずやってから公にする。敗者は大風呂敷を広げても、結局やらない。
・勝者は今やれることは今やる。敗者は「明日やる」と言って、結局やらない。
・勝者は常に前を見つめる。敗者は過去の小さな栄光に、いつまでもしがみつく。
・勝者は生きることを楽しみ、敗者は生きることに追われる。

 だんだん自省と自分へのナグサメになってきたかも…。ハハ。

2007年9月4日火曜日

踊子

「踊子」の歌を特訓中。できれば下旬に予定されている訪問ライブで歌ってみたい。

「踊子」というタイトルの歌はいくつかあるが、私が目下練習中なのは、村下孝蔵でも下田逸郎でもなく、50年前に三浦洸一の歌った「踊子」である。この歌は川端康成の小説「伊豆の踊子」を元に作られていて、同様の歌は他にも何曲かあるようだが、私の記憶に深く刻まれているのは、この一曲のみ。

 この歌には問題がひとつあって、歌っていて思わず泣けてしまうことだ。介護施設でも最近要望の多い「千の風になって」は歌って泣けることはまずないが、この歌は違う。私自身に、小説に関わる強い思い入れがあるせいだろう。
 三浦洸一の「踊子」を聞いたのと、川端康成の「伊豆の踊子」を読んだのと、いったいどっちが先だったか、自分でもよく覚えていない。どちらも小学校高学年の多感な時期であったことは間違いない。
 哀愁に満ちた切ない歌詞とメロディは、小説の持つ世界をうまく表現していると思う。
 このブログでもしばしばふれたが、20歳のときに企てた自転車全国放浪の旅で、どうしてもこの小説の世界を体験したく、小説の舞台に近いルートをわざわざ辿ったりもした。
 43歳のときに書いた「八月の記憶」という小説は、「伊豆の踊子」に強い影響を受けている。未熟な男女の真摯な愛を描いた作品が元来好きで、三島由紀夫の「潮騒」なども同一線上にある。

 小説や映画に強く感動すると、そのまま歌になることがあるのはよく理解できる。私も同じ経緯で、映画の「道」「初恋のきた道」、小説の「鶸(ひわ/三木卓)」からオリジナル曲を生み出した。
 しかし、いくら感銘を受けても、「伊豆の踊子」からオリジナル曲は生まれないし、作ろうとも思わない。三浦洸一の「踊子」があまりに強烈過ぎるからで、素人があれを超えることなど不可能である。

「伊豆の踊子」は映画やテレビでも数多く観た。私自身の思う過去の最高傑作は、正月テレビで1992年に萩原聖人と小田茜が演じた作品。主演の二人が最も小説の持つイメージに近く、他の脇役のバランスも抜群だった。
 次点は1963年映画の吉永小百合。文句なく可愛らしかったが、踊子の陰の部分をもっと出して欲しかった。脇役もいまひとつですか。

2007年9月3日月曜日

絵に描いたパソコン

 室内パースの仕事がようやく終った。いろいろと足りないパーツのデータを、今日もシコシコ作った。
 写真(CG画像)は、フリールームの机上に置いたパソコン。先日買ったばかりのWindowsパソコンをスケールで測りつつ作業し、1時間弱で完成。キーボードに文字は入っていないが、他はほぼ実物通りである。
 文字入れももちろん可能。でも、今回はスケールの関係で必要ないのです。


 普段は家や庭のデータばかりをひたすら作っているが、このようにいつもと違う要求が出て、いつもとは違う作業に勤しむのも、刺激があってなかなか楽しい。

 今回は珈琲カップやパソコンのほか、「提灯型ペンダント照明」「竹の書院風棚」「金属モビールの置物」などの新しいデータを作った。
 こうして作ったデータは、次回に同様の依頼があったとき、有効に使える自分だけの大切な財産だ。

2007年9月2日日曜日

珈琲ブレイク

 毎度のことだが、休日って何ですか?といった感で仕事に励んでいる。

 4点あるはずだった室内パースの仕事、打合せのなかでいつの間にか3点に減った。A4のスペースに縮小しておさめるのに4点では多過ぎるでしょう、小物と家具の変更だけで、部屋の雰囲気をガラリと変えるのは難しいでしょう、などとハウスメーカーとの打合せで提案したら、あっさり受け入れられた。
 本当は作品数が多いほうがモウカル。しかし、納期が短く、不得手な室内パースでもあるしで、リスクは極力避けたかった。
 慣れない作業であったが、何とか2点は終った。残る1点は頭の中が完全に「室内パースモード」になっているので、そう時間はかからない。明後日の早朝には、充分間に合う。
 いつものことだが、難しい作業を先にやってしまい、簡単な仕事は後回しにしている。締切ぎりぎりで苦しむのを避ける知恵で、「おいしい物は先に食べてしまう」という生活の知恵と正反対だが、どこかつながっている気もする。


 今回、必要に迫られていくつかのデータを新たに作成した。「テーブルの上に飲物を置く」という注文が出たので、珈琲カップのデータを探したら、どこにもない。ジュースなら手持ちがあるが、今回はどうみても珈琲が似つかわしい。

 ネットで検索したら、たかが珈琲カップで10ドル(1,200円)もする。手間を考えるとそれくらいの価値はありそうだが、買うのもシャクなので、急きょ自分で作った。アップで見るとややカクカクしてるが、使う大きさから逆算すると、この精度で充分。
 こんなことをチンタラとブログに書いているより、さっさと仕事を進めるべきかもしれないが、なに、これぞ息抜きの「珈琲ブレイク」なのさ。

2007年9月1日土曜日

枝豆3号

 昨夕、妻は職場の棚卸し作業にでかけたので、夕食は一人。私も仕事に追われているので、妻が作っておいてくれたカレーとイカゲソを食べた。
 ちょっと酒の肴が足りないので、庭に行って枝豆を数本抜いてきた。今年3度目の枝豆だが、もしかしたら茹で方次第でもっとおいしく食べられるのでは?と閃き、ネット検索でいろいろ調べてみた。
 複数のサイトからの情報を見繕い、以下の手順で茹でてみたら、これが絶品。枝豆って、こんなにウマイものだったのか!

1)枝豆をボウルに入れ、大さじ2杯くらいの塩で2〜3分もむ。
2)1Lくらいのお湯を湧かし、塩にまみれた枝豆を投入。
3)このまま4〜5分茹で、味見をして問題なければザルにあけてさます。


 ポイントは1)で、かなり面倒だが、この作業なくしてウマイ枝豆にはありつけない。こうして茹でた枝豆には上品な塩味がついているので、追い塩はせずにそのまま食べられる。

 あまりにウマイので、妻にも少し残しておいた。遅くに戻った妻に試食してもらうと、「私の茹でたのより、ずっと美味しい!」。そうでしょう、そうでしょうとも。
 調子に乗って、今夜も全く同じ手順で茹でた。段階的に種をまいた枝豆が、次々と食べごろになってゆく。当分は毎日ウマイ枝豆にありつける。