今回、銀行口座解約のために「改製原戸籍」という、父の出生から死に至るまでの戸籍簿を必要に迫られてすべて取寄せたところ、出身は秋田県山本郡能代港町(現在の能代市)と判明。
確かに八郎潟には近いが、やや北方であった。しかし、「半農半漁の生活をしていた」という話とは一致する。
大正2年3月にそこから北海道上川郡永山村(現在の旭川市永山)に入植し、その2年後に雨竜郡上北竜村添牛内(現在の幌加内町政和)に移転し、直後に父が生まれている。
明治37年に屯田兵制度は廃止されているから、「屯田兵だった」という父の話は誤りで、単なる開拓農民だったようだ。
古い手書きの戸籍からは、先代や先々代の開拓の苦労が行間からにじみ出てくるようで、非常に感慨深い。
そのほか、これまで知らなかった先祖の新たな事実もいろいろと判明した。貴重な資料なので、戸籍はコピーして保管しておくことにした。
それにしても能代市といえば、同窓の建築家、西方里見さんが事務所を開設し、ずっと地元に根ざした家作りにまい進されている地だ。
西方さんは建築家としては大先輩だが、同時に私の大学のサークルの後輩でもあり、ジャンルは異なるが同じ出版社から本も出している。世の中、妙なところでつながっているもの。不思議なエニシを感じずにはいられない。
「自分はどこからやってきたのか」「自分はどこへゆくのか」といった、ややもすれば哲学的な自問自答は、幼き日から私にとっての答えの出ない永遠のナゾであった。
20歳のころ、記録のはっきりしている母方のルーツを探りに、福井県武生市まで何度か旅したことがある。
(母方のルーツは、西暦700年代から続くと言われている寺である)
自分の祖先の暮らした地を訪れて、その空気に直にふれてみると、どことなく気分が落ち着く。遺伝子が風を記憶しているのかもしれない。
関東に住んでいたころ、妻が生まれ育った地を一度だけ訪れたことがある。葛飾柴又に近い何の変哲もない下町の路地であったが、肌で感じ取れる何かがその空間にはあった。
北海道に戻ってからは、同じ動機から、今度は妻を私の生まれ育った地である幌加内町政和に連れて行った。愛する者の原点を互いに見極め、確かめるために。
一人の人間は、ある日突然急にこの世に現れたものではない。喜びや悲しみを交えた長い長い祖先の暮らしや記憶の積み重ねの上に、いまの自分がある。人は誰でも気の遠くなるほど長く、複雑にからみあった係累の最先端に存在しているのだ。
そのことを呼び覚まし、謙虚に生きるためにも、自分のルーツを探る旅は貴重だと思う。
今回、父のルーツがはっきりしたので、いつかその地を訪れ、祖先の暮らした大地を踏み、祖先の眺めた空をこの目で見上げ、祖先を育んだ大気を胸いっぱいに吸い込んでみたいと思う。
生きていればいつか。