2007年10月29日月曜日

染まる一軒家

 諸事雑事仕事の類いに追われているうち、ふと気づくと紅葉も終ろうとしている。かろうじて記録した我が家の秋のショット。
 壁の中央にモコモコと繁るのは、このブログにしばしば登場する蔦である。まさに「燃えて」いる。

 右側の空地に染まっているのはエゾヤマザクラ。左側に黄色く見えるのは、紅葉の本命であるはずの楓。しかし、今年に限っては蔦に主役の座を奪われた。


 この写真を撮ったあと、雨が降り始めたので、落葉は一気に進む。花の命も短いが、紅葉の命もまた短し。恋せよ乙女、恋せよ青年。中年族もまた、大いに人生を楽しむべし。生きているうちにね。
 昨夜は明け方4時まで仕事に励んで2件の仕事をメール納品し、寝たと思ったら朝9時にその仕事の件でタタキ起こされた。今週一杯は全く気を抜けない日々が続く。
 人生を楽しむのも、なかなか楽じゃないぞ。

2007年10月26日金曜日

跡を継ぐ

 先月、東京で商品デザイナーをやっている娘からメールがあり、自分でデザインのすべてを取り仕切った電子レンジが無事商品となり、店頭に並んでいるという。
 すでにメーカーサイトの新商品コーナーにも掲載されていて、さっそく見たが、モノトーン調のシンプルなデザイン。なるほどいかにも娘好みであるわいなと妙に感心し、少しだけ誇らしく思った。

 以前にも娘のデザインした商品が店頭に並んだことがあるが、その時はモノが女性用の衛生商品であったため、妻に「引率」してもらってドラッグショップにわざわざ確認に行った。
 サクラの花を人の顔にデフォルメした季節限定商品だったと思う。幼きころ、命のないモノを擬人化して遊ぶのが得意だった、これまた娘らしいデザインワークであった。
 3人の子供のうち、デザインの分野を職業に選んだのは娘だけで、その意味では私の「跡を継いだ」ということになるのだろうか。
 娘が学生時代、専門の選択コースに別れるときに一度だけ、「建築をやる気はないか?」と問いかけたことがある。しかし、「ありません」と即答。興味がないとのことで、「あっ、ソーデスカ」と、私もそれ以上深追いしなかった。

 自分がまさにゼロから独学で築いたいまの技術を、たとえ子供とはいえ、強引に継がせる気は若いころから全くなかった。親は親、子は子である。私が25年かけて築いたいまの仕事の技術も人脈も、一代限りで消え去る定め。子供はそれぞれの好きな道を選んで、自由に歩いてゆけばよい。
 娘が選んだ道も決して強制したわけではなく、あくまで本人の意志である。そして、デザイナーとしてそれなりの位置にいまいるのは、本人の努力にほかならない。
 仮に多少の資質があったのだとしても、そのDNAは私が作ったものではなく、単に遠いご先祖様から脈々と受継いだもの。私のやったことは、妻を介してそれを伝えただけだ。「これはオレの血だ」などと、自慢する気はサラサラない。
 親が子に残せるものなど、微々たるもの。

2007年10月22日月曜日

燦々午後

 午後の陽射しが暖かい。自宅の1階も2階も、南と西に設けた広い窓からの太陽の恵みがゼータクに降り注ぐ。朝から暖房なしで、14時の室温は23.5度。カーディガンを脱ぎ、シャツ1枚で仕事に励んでいる。


 休日返上で一大プロジェクトが延々と進行中。丸6日も同じ図面とニラメッコしているが、少しだけ先が見えてきた。マウスを握る指に力がこもる。

 この仕事、入金はかなり先なので、いわば来期計画の先取りともいえる。(青色申告なので、年末が事業の区切り)
 北海道の景況感が悪化したと新聞では騒ぎ立てているが、幸いなことに今年はいまのところ大きなダメージは受けていない。この一年余、新規営業開拓と制作面での新境地研摩に励んだ成果だとしたらうれしい。
 いくつになっても趣味や仕事や家事等で、常に新しいものをめざしていけたらいい。

2007年10月20日土曜日

主役交代

 多忙な仕事の合間、ふと思いついて机の電気スタンドの位置を変えてみた。最近の作業環境の変化で、西側の仕事机はほとんど使わなくなった。そこでここに二つあったスタンドのうち、ひとつを使用頻度が最近高い打ち合せテーブルとWindowsパソコンの間に移した。
 スタンドの取付金具は吹き抜けについている手摺にうまく収まり、作業の邪魔にならない。


 手描きの仕事が大半だった5-6年前は、広くて明るい西側の仕事机が制作作業の主体だった。手描きの仕事には、膨大な種類の道具や材料を使う。幅1820、奥行き600の大型天板は非常に重宝した。
 仕事がパソコン主体になり、使わなくなった大きな製図器械もすでに片づけてしまい、手描きで大活躍したエアブラシ専用のコンプレッサも、いまや埃をかぶったままだ。
 代って主役に躍り出たパソコンは、予備を含めてすでに3台。これも時代の流れで、手作りの机や引出しの体裁や配置は、いまやすべてパソコン中心に変わってしまっている。

 日々流れゆく社会環境に敏感に対応していないと、たちまち食いはぐれてしまう厳しくて難しい世相である。
 何十年も変わっていないのは、仕事とは直接関係のない机上のグッズだけか。電球や双眼鏡は実用的なばかりでなく、立派な飾り物にもなるのです。
 手持ちのカメラに、「夜間専用モード」なるものを発見。今回の写真はそのモードを使ってみたが、写りがまるで違う。三脚は必要ですけどね。
 機械にはウルサイと自負していたが、自分の持つ道具にも、まるで知らなかったこんな便利な機能があったのでした。ケンキョに学習。

2007年10月18日木曜日

切ない夕暮れ

 一昨日の歯医者の帰り、車中から見る夕方の風景が、目に染みるように切なくて美しい。デジカメを持参していたので、車を止めて写そうと思ったが、あいにくそこは一車線。やたら止めると、通行に支障がありそうだった。

 安全な広い通りに出て、さあ写そうかと辺りを眺めたら、先程の鮮やかな風景はあとかたもなく消え去っていた。この間、わずか数分である。
 はかなく、そして美しい時間は、ほんの一瞬なのだと思い知った。
 家に戻ると、「切ない夕暮れ」という言葉がぐるぐると巡り始めた。写真には残らずとも、頭の中の印画紙には、先刻の風景がはっきり焼き付いている。傍らの紙にイメージを素早くメモする。ほぼ同時にメロディが落ちてきた。
 いわゆるサビの部分は簡単に出来たが、その前後を構築するのにかなりの時間を費やした。昨日は仕事の合間、ずっとその作業に没頭した。忙しいときに限って、曲作りの神はしばしば微笑む。

 昨夜遅くに、どうにか曲としての形になった。サビの前後を無理なくつなぐために、これまで一度も使ったことのないボサノバ風のリズムパターンを使った。曲の体裁が整った大きな力がこれだった。
 淡い秋の空気感を表すのに、これまた一度も使ったことのない「Dm6」「Aadd9」というコードも使った。

 切ない夕暮れ 忘れた約束
 僕は読みかけの本のページに 朱いしるしをつける…♪


 曲のテーマは、「心につなぎ止めておきたい、ひとときの時間」。ほぼ固まっているステージ構成のやり直しになってしまうが、来月実施予定の自宅コンサートで歌うかもしれない。

2007年10月16日火曜日

風沈む

 昨夜、寝る前に外の温度計を見ると、何と零度ぴったり。これは寒いよ、真冬なみだよ。室温は20度前後あったが、早朝にでかける妻が寒かろうと、暖房ボイラのタイマーを朝5時半にセットして寝た。
 つまり、暖冬だった去年より1週間近くも早く暖房をつけたわけだ。過去の記録では、だいたい10月中旬が暖房ボイラの平均着火日。ヤセ我慢もほどほどにしておかないと、体調を崩しますもの。


 午前中、ある設計事務所からの電話で起こされた。先週末に打診のあった仕事で、すぐに打ち合せにでかけた。
 東北の某都市に計画中の大規模建築物で、景観条例のからみから、4方向から撮った現地写真に完成パースを合成し、事前審査の資料にするという。私の得意分野で、しかもかなり大きな仕事である。

 7月から建築基準法が変わって確認申請審査が厳しくなり、住宅の着工が去年同時期の半分以下に滞っているという。曖昧な審査基準が明確になるまで様子見というわけだが、住宅の仕事が多い私は、そのあおりをモロに受けている。
 今日の仕事は大規模建築なので、その影響はあまりない。天の恵みのような仕事の依頼に、正直ホッと一息ついた。
 昨夜、寝床の中で一句できた。

風沈み 名残りトマトを 摘みにゆく

「風沈み」の導入部と、「採りに」でなく「摘みに」としたラストがポイントと、一人悦に入ってみる。創作はまず、自己陶酔からですか。

2007年10月15日月曜日

名残りトマト

 札幌近郊の手稲山に初雪が降り、我が家の菜園も終りに近づいた。今朝は4度近くまで冷え込んだ。冬は近いぞ。

 例年、熟さないトマトは刈り取ってそのまま堆肥にしていたが、ふと思いついて今年は青いまま採取し、窓辺にしばらく放置しておいた。すると、不思議なことに徐々に色づいてくる。10日以上経つと真っ赤に熟し、いかにもうまそう。
 そのまま冷やして食べてみたら、完熟とほとんど変わらないおいしさ。写真右が採った直後で、左が10日ほど経ったあとのトマト。いわば「名残りのトマト」だ。


 工夫のかいあって、庭のトマトはほぼ食べつくし、枝だけが残った状態。秋のトマトは色づき始めると熟す前に割れてしまい、格好の虫の餌と化していたが、このやり方だと無駄なく食べられる。
 縄文生活の新たな知恵を会得したかも。

秋のトマトは青いうちに採って、室内で熟させよ

2007年10月13日土曜日

暖房ガマン比べ

 暖房ボイラは毎年10月から翌年の5月くらいまで、断続的に運転する。不凍液を暖めてパネルに循環させるセントラル方式なので、自然蒸発で少しずつ循環液が目減りする。これをシーズン始めに補充してやる必要がある。

 入居して3年間はほったらかしだったが、4年目の春にゲージで循環液量を調べたら、最低ラインぎりぎり。あわてて専用の不凍液をホームセンターで購入し、原液を水で50%希釈して1.5リットル補充した。(満タンで2.5リットル入る)
 以降、2年おきくらいに補充しているが、このペースだと、およそ一回0.5リットルの補充で済む。


 補充方法は取扱い説明書に書いてあるので、素人でも充分可能。特別な資格もいらない。仮に最低ラインを下回ったままで運転を続けると、重大な故障につながる。循環液の定期的な補充は、暖房ボイラメンテナンスの重要なポイントなのだ。
 サンヨー製HBU-AKシリーズの場合、ネジを緩めて前蓋を外すと写真のように右下にリザーブタンクがあり、簡単に補充できる。循環液量を調べるだけなら、蓋を外さなくても可能。

 すべて自分でやったので、2リットル1,200円の専用不凍液だけで済んだが、外注すると一回1万円は下らないだろう。この種のことを自分でやる人はあまりいないと思うので、やれそうにない環境の方、お金に余裕のある方は、専門業者に頼むのが無難である。
 なお、我が家では単なる補充だけで8年を過ごしたが、ボイラのメーカーでは、「循環液は3〜4年毎に全量交換が望ましい」と推奨している。参考まで。
(追記:その後14年目にして、初めて全量を交換した)
 不凍液も補充し終り、暖房ボイラはいつでも運転OKの状態となったが、実はいまだに暖房は一度もつけていない。今朝は明け方に18.5度まで室内が下がったが、早朝に出かける妻は、暖房なしで過ごしたそう。
 その後、陽射しが室内を巡りだすと、室温はたちまち22.5度まで上昇。夜になっても、21度以上をキープしている。

 こうして今年も、「いつまで暖房なしで過ごせるか?」というストイックなガマン比べが、おそらくあと10日は延々と続くのだ。

2007年10月10日水曜日

パッシブ

 今日も日中の気温は9-14度の間をウロついていて、雨もシトシト。昨日と同じような肌寒い一日だったが、昨日調整した2階天井換気口の効果がようやく出て、夜になっても室温は23度弱。昨日よりも2度以上高く、これならしばらくは暖房なしで過ごせる。

 ちょっと難しい話になるが、我が家は「パッシブ換気」という自然の温度差を利用した換気暖房システムを採用している。床下から外気を取り入れ、室内を循環させて2階天井から抜いてやるという、電気を全く使わない、非常にエコロジー&エコノミーな手法だが、季節の変わり目での天井換気口の調整がやや面倒で難しい。


 2階ロフトの最上部につけてある直径150ミリの換気口は、通気量を微妙に調節できる仕組みになっている。外気温の高い夏場は全開放でOKだが、秋から冬にかけて、外気温が10度以下になり始める時期には開放量をツマミで調整し、通気量をコントロールしてやる必要がある。
 こうすることで、換気による熱損失を最小限にし、暖房費を節約しようというのだ。全開放では換気過多で寒く、暖房をつけたときもエネルギーの無駄が生じる。完全に閉じてしまうと換気量がゼロになるので、これまた駄目なのだ。経験的に冬期は20-30%くらい開けてやるのがちょうど良い。

 以前はハシゴに昇ったり、長いひもをつけたりして換気口を調整していたが、入居して8年たったいまは椅子に乗り、長い棒を使って簡単に調節する手法を考えだした。
 パッシブとは本来、機械の力に頼ることなく、自然のエネルギーを利用するシステムをいう。我が家では換気だけでなく、暖房や除雪、給湯などにもこのパッシブの概念を有効に活かし、エネルギー消費を抑制している。今後生活のありとあらゆる分野で、必須の考えになるはずである。

 工夫次第で初期コストも非常に安く済むが、理解者はごく少数。エコロジーなどというものは、得てしてそのようなものだ。

2007年10月8日月曜日

最後の大宴会

 世間なみに仕事のない3連休であったので、以前から構想にあった居間西側の収納ベンチの改造に着手。これまで隙間が32ミリあったスノコ状の座板に材料を追加し、隙間を12ミリに縮めた。
 ベンチの上にはマットを載せてあるので、ただ座るだけなら変えなくともよかった。しかし、仮に居間で「大宴会」をやるとなると、いま使っているテーブルだけでは少し小さい。
 そこで高さがテーブルと同じのこのベンチを、必要に応じてテーブルとしても使おうというのだ。
 試してみると、この隙間だと食器を置いても支障ない。上にテーブルクロスを敷くと、さらによいはず。
 実際に配置するとどうなるのか、どうしても試してみたくなり、2階から予備の座布団までおろして、やってみたのが下の写真。


 まず掘りコタツ用の穴を床下に置いてある木製の台でふさぎ、床を完全にフラットにする。(コタツ下の台は、いつでも床をふさげる仕組み)掘りコタツは座るにはとても楽だが、現状では6人が限度。床を平らにしてテーブルの位置をずらすと、それだけで10人ほど座れるようになる。小宴会ならこれで充分。
 これにベンチを追加すると、16人くらいまでなら、何とか座って会食が出来そうだ。いわばこれが我が家の「非常時大宴会モード」配置となる。
 では、その「大宴会」とやらが、いつ何時あるのか?と問われると、それはまだ分からない。将来的に大宴会が実施される可能性があるのは、3人の子供がそれぞれ結婚し、孫など連れて一同に会したとき。あるいは、定期開催している自宅コンサートの打ち上げで、偶発的に多くの人が集まってくれたとき、等々。
 そして最後の可能性は、私や妻の葬儀である。以前は自宅で結婚式や葬式をやる人は珍しくなく、私も何度か参列したことがある。しかし、主に住宅事情の変化で、それも難しくなっている。
 生きているいま、自ら「縄文生活のススメ」などとぶちあげているのだから、人生のピリオドもシンプルでスリムに打つべきであろう。

 この計画、たぶん実現可能と思うが、自分で確かめられないのが、ちと心残り。だが、「生きること≒死ぬこと」と常々考えている身には、何か安心できる試みなのであった。

2007年10月6日土曜日

凛と立つ電柱

 夕方、ふと思いついて、いつもと逆回りに散歩道を辿ってみた。最近、散歩は一日おきペース。昨年受けた生活習慣病予防講習で、運動は早足の散歩を週に3回程度でよい、と教えられた。中年以降に激し過ぎる運動は禁物とか。

 そういえば、40代に数年入っていた壮年サッカーチームで、熱心に活動していた方が、相次いで60代後半という若さで亡くなった。これといった持病はなく、週に一度のサッカーを欠かさずやるほどの気力体力だったから、さぞや健康で長命かと思いきや、そうではなかった。
 お二人とも妻帯者であったので、「独身者の平均寿命は9年短い」という統計にも、あてはまらない。だとすれば、年齢に比べて運動が激し過ぎたのだろうか。


 サッカー初心者であった私は、次第にチームのお荷物になってしまい、40代半ばで退団したが、結果としてそれでよかったのかもしれない。
 以来、サッカーは地域の子供に教えるだけとなり、10年前からはそれもやめてテレビ観戦だけとなった。
 逆回りの散歩道は、なぜかいつもと風景が違ってみえた。そのせいか、道端にある電柱にふと目がいった。
 空は雲ひとつなく、まさに秋晴れ。その青い空に、白い電柱が凛として突き抜けている。思わず近寄ってカメラにおさめた。同時に、ハラハラと空から一句舞い降りてきた。

 電柱も 凛として立つ 秋日和

 人工工作物だが、街に何気なく佇む電柱にも、大自然とはまた別の美しさがある。ネットで調べてみると、熱心な電柱マニアも確かに存在する。その美に気づかされるのも、秋だからだろう。
 それにしても、今年は俳句がよく生まれる。すべて写真とセットで記録してあるところがミソ。もう少し数が増えたら、何らかの形でサイトにまとめるかもしれない。

2007年10月5日金曜日

年金通知

「国民年金納付通知書」なるものが私と妻の分、2通届いた。これまでこの種の書類が届いたことはないから、一連の年金騒動で、社会保険庁もようやく改革に本腰をいれる気になったか。
(ちなみに、今回の通知書は58歳を過ぎて2ケ月後に送付される通知書とは異なる。なぜなら、私たち夫婦はまだ57歳であるから)

 通知書には過去3年分の納付状況と、これまでの加入状況の累計が記載されていた。私には9年の厚生年金加入歴と25年の国民年金加入歴がある。
 過去の納付書の控えはすべて厳重に保管してあり、何か問題が起きても対処可能であったが、記録と控えを詳細に突き合わせてみたところ、食い違いは全くなかった。あれこれ嫌な情報が耳に入っていたので、正直ほっとした。

 妻にも7年半の厚生年金加入歴があり、加えて29年の国民年金加入歴。妻の記録にも不備は全くない。
 私よりも国民年金加入歴が長いのは、サラリーマンの妻だった時代、任意加入だったが、先のことを考えて4年間納めていたからだ。あれこれ言っても、けっこう手堅い人生設計をしていたのだなと、妻と二人で妙に感心した。
 私と妻は生年月日もほぼ同じで、おそらく貰える金額もほぼ同じ。違っているのは基礎年金受給開始年齢くらいか。長命のはずの女性が、現時点ではなぜか少し早くもらえる。
(老齢基礎年金の定額部分)
 宮仕えの時代に納めた厚生年金の「報酬比例部分」という名のお金は、二人とも60歳、つまりは2年後から文句なく支給される。二人とも勤務期間が10年に満たないので金額は少ないが、ちょっとしたアルバイト代くらいにはなる。
 衰える心身にムチうって働いている妻のひとつの目標が、この報酬比例部分の年金が支給される60歳。デザイナーという名の自由業である私に定年はなく、身体さえ動いて、仕事さえあれば、70歳でも80歳でも働ける。だが、肉体労働を主とする妻に、同じ方程式を当てはめることは酷だ。

 実感はあまりないが、はるか遠い先のことだと思っていた年金受給が、いよいよ現実味をおびてきた。今回の通知書に具体的な金額の記載はないが、自らの試算でほぼ把握している。
 たいした額ではないにしても、老後の糊口を凌ぐことくらいはできるだろう。無駄を省いた「縄文生活」は必須条件ですが。

2007年10月4日木曜日

禁断のマヤク

 9月末に引合いのあった設計図面補助とネット住宅相談の仕事は、諸事情でいずれも無期延期となった。上昇の兆しありとはいえ、まだまだ運気のナベ底状態にいることに変わりはないようで、少しも気を緩めることはできない。
 過去数年の記録を調べてみると、10月はおしなべて暇。そうだったかもなと、1年前のことはすっかり忘れてしまっている。

 先月末に採用された新聞投稿の謝礼が届いた。地元紙なので2000円。しばしごぶさただが、全国紙ならばこれが3000円のはず。
 投稿を始めた20代の頃は確か地元紙でも500円で、毎回500円札の岩倉具視が現金書留封筒で送られてきた。いまは普通郵便のギフト券になり、金額も上がった。


 字数制限の関係で前回書き切れなかったが、芥川賞や直木賞をポーズではなく、本気でネラっている人は、新聞や雑誌の投稿などしてはいけない、とよく聞く。なぜなら、そのような人は基礎的な文章力や構成力があり、投稿すれば簡単に載ってしまうからだそう。
 つまり、書いた自分の文章が即、活字という具体的で魅惑的な形になり、しかもそれなりのお金までいただけてしまう。いわば甘い禁断のマヤクを瞬時にあてがわれるようなものだからで、本格的な作家をめざすにはこれが大いにマイナスとなるらしい。越えるべきハードルが、知らず知らず低くなってしまうのだろう。
 ブログにも同じようなことが言えそうだ。新聞や雑誌の投稿と違い、ブログを書いても普通はお金になどならないが、「自分の書いた文章が、たちどころに世界中に具体的な形となって提示される」という、もしかすると新聞や雑誌の投稿以上のマヤク的な喜びに浸れるからだ。
 この「ブログを書くという行為に介在する禁断のマヤク中毒」をよくわきまえていないと、ちょっと困った状態に陥ることがあるかもしれない。自分で自分の甘さをコントロールするのは、至難の技なのだ。