2008年10月31日金曜日

都心散策雑感

 休暇の妻と共に、朝10時過ぎに家を出た。4年前に入院治療した妻の眼の定期検診と、都心の公園にあるイサム・ノグチの彫刻の取材撮影が主な用事だが、月末の雑事とも重なって、合計10カ所近くに立ち寄る必要があった。

 まず2つの銀行で金を下ろしたあと、都心の眼科に直行。11時に着いて妻を降ろし、車は病院の駐車場に停め、そこから私だけが歩いて単独行動となった。


 眼科は北大のすぐ近くで、いまが見頃という北大構内のイチョウ並木を見に行く。噂通り、見事な紅葉(黄葉?)である。通りは観光客であふれていた。街路樹のイチョウよりも幹がはるかに太く、長い歴史の積重ねを感じる。
 北大は若き日に2度受けて2度落とされた因縁の大学で、構内に入るたび、いまでも心理的な「壁」をかすかに感じる。ある意味での「トラウマ」というヤツか。

 しかし、見事に落ちて滑り止めの地方大学に入り、すんなりと19歳で家を出ることが出来たのは、「自立」という一点で、私にとっては大きな幸いだった。
 人生で初めて「負けた」こと、そしてそれが鼻っ柱の強い青春時代だったことが、その後の私の人生の方向を、おそらく良い方に変えたのだといま振り返ってみて思う。私の場合、「負け」は大きな逆バネとなって作用した。


 北大を出て、南に向かってひたすら歩く。構内と歩道とを隔てる塀が、なかなかデザイン的に優れているので、ついしゃがんで写真を撮った。

 塀はおそらく札幌軟石で、歩道はレンガの名産地、江別あたりで作った焼き過ぎレンガか?味があるのは、その間に設けられた幅20センチほどの緩衝地帯である。レンガもアスファルトもコンクリートもなく、ただの土が無造作に均されているだけだが、この部分に様々な植物が自生している。
 写真に写っているのは、忘れな草の仲間だろうか。生命力が強い種なので、たぶんどこからか種が飛んできて、自然に増えたのだろう。
 最近、自宅の庭もたまに草刈りをする程度で、ほとんど構っていない。つまりはこの緩衝地帯同様「放ったらかしのなすがまま」なわけで、その時期によって種が飛んできて勢力を広げる植物は、たとえばクローバーだったり、カタバミだったり、タンポポだったり、はたまた忘れな草だったりする。自然が勝手に作り出すナチュラル花壇というわけだが、それなりに味があるのだ。
 何もせずとも自然はひたひたと流れ、それが究極の「美」につながる。

 予報では午後から天気が崩れるらしく、イサム・ノグチの彫刻がある札幌大通公園へと足を早めた。大通りに向かう途中、前方から歩いてきた男性の顔に見覚えがある。赤信号で立ち止まったとき、互いに眼があった。
「あら?」「おや?」
 定例居酒屋ライブで顔見知りになったOさんで、妙な場所で出会うものだ。先方は連れがいたので挨拶だけ交わして別れたが、時計を見ると11時半。しかも平日である。自由業の私は仕事さえなければ勝手気ままな身だが、さてはOさんも…。
 札幌に初めて住んだのは47年前だが、当時の人口は70万前後。都心に行くと、よく知り合いに出会ったもので、大都市とは思えないそんな街のたたずまいを、「とても好きです」というコメントを地元紙の投稿欄で見かけたことがある。
 Jターンしてまた札幌に住み始めてからは人口も190万近くまで増え、都市化も進んで、都心で知人に偶然出会うことはそうなくなった。それでも数年に一回くらいは、この日のような偶然に出くわす。

 さらに不思議なことに、偶然出会う相手は私の場合、同じ人ばかり。FMラジオ局のMさん、取引先のNさんなど、会社の前でもないのに、まるで打合せたかのように、とんでもない場所でバッタリ出会う。それも一度ではなく、2度3度というのだから恐れ入る。織姫と彦星以上の偶然で、縁のある人というものはそういうものか。


 JRのガードをくぐり、トイレを借りようと紀伊国屋書店に寄る。しかし、トイレはなく、寄ったついでに、店内でまだ自分の本が並んでいるか否か調べた。
しかし、どこにもない。店が大通にあった時期は確かに並んでいたが、移転してからは生き残り競争にどうやら敗れたらしい。入口にある検索機で調べてみたら、「在庫なし」との表示。発売されてからすでに8年にもなるから、これも仕方がないこと。そろそろ出直せよ、との啓示であろう。
 トイレは道庁で借り、ようやく大通公園にたどり着く。目的のイサム・ノグチの彫刻は、8丁目と9丁目をぶち抜いて作った広場の真ん中にある。「ブラック・スライド・マントラ」と呼ばれる黒花崗岩で出来た重厚な作品だが、写真のように彫刻そのものが滑り台となっていて、誰でも自由にさわれ、そして滑ることができる。

 公園は閑散としていたが、ブラックマントラには2組の親子連れが遊んでいて、なかなか離れようとしない。この日の撮影はノンフィクション作品の中表紙に使う予定のもので、できれば人は入ってないものが欲しかった。
 辛抱強く待ったが、ふとイサム・ノグチが生前語っていたある言葉を思い出した。
「公園は全体が彫刻のようであり、その中で子供たちが生き生きと遊び回る遊園地でもある…」
 そうだ、子供が遊ぶ写真こそ、彼の人となりを表すのに相応しいのかもしれない。そう思い直し、遠くから何枚か写した。そのうち親子連れは去り、念のため人物の入ってない写真も写す。
 この日の大きな目標を無事達成し、そこでしばらくボ~と時を過ごした。
 来た道を再び北へと戻る。途中のヨドバシカメラで知人の新築祝いの掛け時計を見繕い、手頃な品を買った直後に携帯が鳴る。病院にいる妻からで、診察が終わり、薬をもらうところだと言う。時計を見ると12時半で、そこから歩けばちょうどよい時間だった。
 駐車場で妻を拾い、札幌駅北口のソバ屋で遅めの昼食をとる。来るのは数年ぶりだったが、なぜか味が以前よりも落ちていた。客商売は難しいと思うが、たいていは初心を忘れ、技術の研磨を怠るころから崩れてゆく。私も広い意味での商売をやっているので、とても人ごとではない。

 漬け物用の大根を買う時期なので、出たついでに安売り店に寄るが、太い大根しかなく、断念。別の店に行くことにしたが、少し遠回りしてガソリンスタンドにも寄る。まだ残量はあるが、出たついでだ。価格は135円/Lで、前回より10円以上も安い。2,000円分だけ入れる。
 大根はその後2つの店をハシゴし、4店目でようやく手頃な品をゲット。たかが大根だが、夫婦とも徹底的にこだわる。安心して帰ろうとしたら、郵便局で保険の支払いをするのをすっかり忘れていて、また少し道を戻った。
 全部で13ヶ所近くも回り、家に着いたらあたりはすでに暗くなり始めていた。

2008年10月30日木曜日

おバカなケーブル

 以前から、デジカメのケーブル接続で悩んでいる。日々のブログ用として毎日のようにデジカメをパソコンにつなぐのだが、この時の付属ケーブルのつなぎ方が、いまいちしっくりこない。
 家庭用コンセントと違い、デジカメのケーブルにはなぜか裏表があり、無理に突っ込むと壊れてしまう。よく見ると小さな目印らしきものは存在するが、もともと視力が弱く、寄る年並のせいもあるのか、これがほとんど認識不可能。毎回難渋していた。

 一時期はパソコン側にケーブルを差しっぱなしにしておいたが、いかにも邪魔。この方法でも、デジカメ側の差し込み問題が解決されたわけではなく、マックとWindowsを時に応じて使い分けている現状では、結局パソコン側も日々抜いてしまうことになる。


 思い余って最終手段に出た。表にあたる側に、写真のように赤いビニルテープを目印として張りつけたのだ。「おバカなケーブル」には、原始的手段を講ずるしかないというわけで、これでひとまず問題は解決されたが、やり切れなさは残る。

 デジカメケーブルのように抜き差しが頻繁なケーブルには、なぜ最初から分かりやすく表裏が認識できる色なり、形なり、突起なりをつけておけないのか。
 これらの概念は「ユニバーサルデザイン」という言葉でかなり以前から論じられているが、そんな難しい言葉など知らずとも、デザイナーが使う側の立場でちょっと考えれば、すぐ分かるはずの問題である。

2008年10月28日火曜日

クラッシュレンガ

 休日返上の仕事を昨夜未明に終えた。今朝は電話もなく、昼近くまで獏睡。体力の回復に努める。溜まってた帳簿(現金出納簿)を記帳し、こちらも延ばし延ばしにしてあったDIY、車庫床の補修作業をやった。
 ブロックの粉砕とその隙間を詰める小砂利の充填までは終わっているので、残すは仕上げのみ。以前に花壇の枠に使ったレンガのかけらを写真のようにハンマーとタガネ(100円ショップで入手)で細かく砕く。下にはブルーシートを敷き、漬物石を台にすると簡単に割れる。

 あとで妻に確かめたら、漬物石は関東で暮していた30年近く前から使っているそうで、「どこで拾ったの?」と妻に尋ねても、「忘れた」。しかし、当時も間違いなくこの石で白菜漬を冬には漬けていた記憶がある。物持ちのよいことよ。


 砕いたレンガ、すなわちクラッシュレンガをシート毎持ち上げ、砂利の一番上にふりまく。あくまで「化粧砂利」の位置づけなので、表面に目立つようにするのだ。
 クラッシュレンガは市販もされているが、小さなバケツ一杯で600円近くもする。割れたレンガを捨てずにとっておき、自分で加工すればタダ同然。写真の分でおよそレンガ1個分ほどで、新品を買ってきて砕いたとしても、80円前後か。
 クラッシュレンガをこのように砂利と混ぜて敷いたり、時にはモルタル表面にまいて均したりするのは私の好きなデザイン手法だが、図面に記入して職人に頼むと、一様にイヤな顔をされる。面倒で手間ばかりかかり、割に合わないからだろう。
 これまで何度か設計図に折り込んだことがあるが、まともに仕上がったためしがない。こればかりは職人をあてにせず、コツコツ自分でやるのが一番きれいに仕上がる。

 車庫床の補修作業はこれにてひとまず終了。割れたあとはこのように補修をした痕跡をあえて残したほうが、住まいの歴史が感じられて好ましい気がする。車の出入りもスムーズになったので、モルタルで表面を固めるのはしばらく様子見としよう。

2008年10月26日日曜日

暖房ボイラ初点火

 日中全く陽がささず、寒いなかで仕事に励む。前夜やった1件目のデータ拾い作業の仕上げに手間取り、2件目にとりかかったのが午後3時過ぎ。夕方の定例居酒屋ライブに出発するのは午後6時の予定で、夕食の時間を考慮すると、作業は5時半までが限度だ。

 夕方5時、一向に室温が上がらず、21度を切ったのでついに暖房ボイラのスイッチを入れた。去年よりも10日遅れたが、本格的な冬到来の前に慣らすという意味で、体感よりやや早めにつけるようにいつもしている。
 4月上旬のまだ安い時期に満タンにしておいた屋外灯油タンクは、その後毎日の入浴くらいにしか使ってなく、目盛りは半分ほど。先日、近所の灯油業者が、「95円/Lにしますから、少しでも入れさせてくださいよ」と営業電話をかけてきたが、「ウチはずっと●●(相場より5円は安い店)から買ってます」と告げると、分かりました、とすぐに電話を切った。
 早めの夕食をとり、6時過ぎにいつものように車で家を出る。18時40分ころに店についたら、すでに店内は満員状態。相変わらずの盛況である。
 今回の参加者は15組だが、歌う曲数は以前のように一組3曲に戻った。ざっと計算すると、一組2曲で21組の参加だった前回より、長くかかる計算。またまた体力勝負になりそうな気配だった。


 私の歌う順番はちょうど真ん中の8番目。子細は後日メインページでレポするとして、この日のセットリストは以下の通り。(すべてオリジナル)

「街染まる」~2004年及川恒平時計台コンサート・イメージソング
「秋の日に…」~35年前に作った、曲中で初めて妻が登場する歌
「切ない夕暮れ」~現在の心境を等身大に歌った2007年秋の曲

 出来はまずまずだったか。終了後、「何がそんなに切ないの?」と、この定例ライブが始まったころから顔見知りの女性に声をかけられた。そのほか、「秋の日に…」に関し、「20代前半であんな詩が書けるとはすごい」と、別の男性からも声をかけられた。
 この日のテーマにした「深い秋」は、切り口としては外れてなかったように思う。
 途中、プロ歌手の飛び入りもあったりし、全44曲を歌い終えたのは、深夜12時15分。やっぱり前回よりも長くかかった。さすがに後半は会場の疲れが目立ったが、何とか持ちこたえたか。
 今回は第2部がなく、閉店までしばしのフリータイムがあるのみ。夜の道を飛ばして家に戻ったら、深夜1時半。部屋の中は22度まで上がっていて、ほんのり暖か。熱いシャワーを浴びたあと、そのまま明け方4時まで仕事を続ける。車ということもあり、一滴の酒も飲まない珍しい一日であった。

2008年10月25日土曜日

私ノンフィクション

「やるべき作業」として机の上に長らく積んであった(といっても、10日ほどだが)資料のうち、来年出版予定のノンフィクション作品の校正作業をようやく片づけた。

 9人の共著だが、企画会議で出すことが決まったのが、何と4年前。商業出版ではなく、限りなく自費出版に近い形なので、制約なしで自由に書ける反面、締切はあってなきがごとし。どうしても作業は遅れがちとなる。
 私は決められた通りに2005年の秋に2作、30枚を入稿済みだが、その校正が3年たってようやく上がってきた。実に気の長い話で、せっかちな私はひたすら忍従を強いられているが、会では新参者の若造なのでこれもやむを得ないこと。


 内容は「北の地に足跡を残した異国人」という切り口で、私はスイスの建築家と、アメリカの芸術家を担当した。何冊もの資料を繰り、足を使ってあちこち取材した労作だが、書いてから3年もたつと、原稿にもややタイムラグが出来てしまっている。その擦り合わせが校正の中心で、文体そのものは練りにねっているので、基本的に修正はない。
 今回、客観性の要求されるノンフィクションではあまりやらない「文中で書き手の存在を鮮明にする」という手法をあえてとった。いわば「私小説」ならぬ、「私ノンフィクション」とでもいうべきもので、上梓の折には、先輩の先生方から何か指摘されるかもしれない。
(たとえば「あれは邪道だよ」とか…)

 どんな世界でも、これまでとは違うことをやると必ず周囲の抵抗があるもので、ある程度の覚悟はしている。
 3年ぶりに作品を読んだが、正直に書くと、自分の作品で泣ける。そんなふうに書いた。冒険だが、この手法は間違っていない気がする。早く世に問うてみたい。

2008年10月24日金曜日

文明の恩恵

 終日激しい風雨が吹き荒れた。ひとまずのライン業務が終わったので、部屋の片隅に置いたままだったレーザープリンタ(ブラザー HL-5250DN)の梱包をようやくほどき、パソコンにセットした。
 最近のほとんどの周辺機器がそうであるように、このプリンタもマックとWindows兼用で、マックはOS9、WindowsはVistaにまで幅広く対応している。
 本の編集ソフトは使用フォントの関係もあり、マック限定。従ってセットアップ作業もまずはマックで行った。


 特に問題もなく、スイスイと作業完了。さっそく編集の一段落した本の一部をテストプリントしてみたら、上から2番目の印刷グレードでも文字は非常にきれい。市販の本と比べても何ら遜色ない仕上がりで、ほっと一安心した。

 問題は熱による紙のソリだったが、印刷直後は予想通り結構そっている。印字を熱処理するレーザープリンタの宿命なので、ある程度はやむを得ない。
 普通紙と本の専用紙とでそれぞれ両面印刷し、2時間ほど放っておいたら、ほぼ平坦に戻った。両面印刷すると熱が均等になるからだろう。ただ、写真を印刷したページは一部に熱が集中するせいか、ソリの戻りが遅い。
 いずれにせよ、印刷してから、ある程度の時間を置く必要がある。
_大きさは思っていたよりも小さく、既存のカラープリンタの下にある棚を外せば、机の下にそのまますっぽり入る。
 ただ、使用頻度はそう高くないと思うので、当面は別の机の下にしまっておき、使うときだけ写真のようにセットすることも検討中。

 USBケーブルは付属してなかったが、カラープリンタのケーブルを差し替えるだけでそのまま動く。写真の状態でA4の紙がプリンタ下部の用紙トレイに入っているので、全く邪魔にならない。これでわずか2万円弱。またしても文明の恩恵を受けてしまった。

2008年10月21日火曜日

暑い秋

 注文しておいたレーザープリンタが午前中届いたが、梱包をほどく暇もなく、本の編集作業に追われた。

 欠けていたエッセイ原稿のプリントアウトしたものが存在することが分かり、FAXで届いたその原稿を、再びスキャンしてソフトで変換した。ところがコピー原稿や印刷原稿なら問題なかった処理も、FAX原稿では解像度が悪すぎる。文字の認識度は、およそ70%程度か。
 愚痴をいっても仕方がなく、次なるライン業務が午後に入ってしまったので、本の編集は今日中にケリをつけたい。FAX原本を参照しつつ、不備な部分は手作業で修正した。
 整えた原稿を、空けておいたスペースに流し込み、整形して調整。原稿のない会員名簿と編集後記、奥付もダミー原稿を使ってレイアウトした。
 夕方までに大半の作業を終える。まだ転載原稿のコピーが10数枚届いてないが、スペースは確保してあるので、現時点で可能な作業はすべて終了。

 明日以降、本文と表紙のテストプリント作業に入る予定。その前にプリンタを使える状態にしなくては。


 忙しくてほとんど外には出てないが、実は最近とても暖かい。昨日は歩いて遠くのドラッグストアまで一昨日売り切れだったワインを買いに行ったが、暑くて途中でジャンパーをぬぎ、背中のザックにしまうほどだった。

 最高気温が20度前後。9月下旬の陽気で、日中は南と西のブラインドを全開し、太陽エネルギーを充分に室内に取り込む「冬モード」にすでに入っているので、室内はとても暖かい。
 これを書いている夜11時で、仕事部屋はまだ24度もあり、替えたばかりの「再生羽毛布団2枚重ね」だと暑くて眠れず、タオルケットを外して布団だけで寝ている。
 そんなわけで、暖房ボイラの不凍液もとうに補充し、備えは万全なのに、この秋に暖房はまだ一度もつけていない。
 記録を調べると、去年は10/16にすでに暖房をつけている。もしかすると、今年は10月中は暖房要らずか?こう書くと、急に寒気がやってきたりするものだから、油断はできないが。
(念のため、外の温度計を確かめてみたら3度!夜はそれなりに冷えてます)