2008年4月23日水曜日

消えた「面影橋」~後編

「面影橋から」の歌には、二つの歌詞が存在する。正確に書けば、かって2番だけに二つの歌詞が存在した。いま世に残っている歌詞は後から生まれたほうの歌詞で、最初の歌詞は彼方へと消え去った。
 古い歌詞に関し、私の手元にある唯一の資料は、1974年の自主制作デモテープである。つい最近聞き直してみたら、記憶の中に残っている古い歌詞と寸分の違いもなく、なぜかホッとした。

 古い歌詞カードや楽譜も丹念に繰ってみたが、こちらには新しい歌詞しか見つからない。当初はラジオからの耳コピーで確かに書きとどめた記憶があり、テープに残した歌もそれに基づいているはずだ。
 どうやら10年近く前に楽譜データを電子ファイル化した折、古い物は処分してしまったらしい。


 古い最初の歌詞をここに書き記すことはできないが、概要を記すことは許されるだろう。
「橋」をモチーフにした1番に対し、「坂」を2番にもってきた出だし部分は全く同じである。異なるのは中盤以降だ。

 現在の歌詞では「春はやってくるだろうか…?」と聴き手に疑問をなげかける形で書かれているが、当初の歌詞では、「春は二度とこない」ということになっている。ここに大塩平八郎の強い影を私は感じる。
 大塩平八郎は幕府という巨大な権力に対し、ほとんど独りで反乱を画策した男だ。儒学者で、かっては大阪町奉行所の与力。知識も、ある程度の権力や地位も得ていた男が、天保の大飢饉に苦しむ民衆のためにあえて蜂起した。
 享年44歳、いまなら人生の晩年を迎えた65~70歳あたりと考えていいだろう。自分の強い信念と引き換えに、命を捨てる覚悟は当然していたはず。つまり、彼にとってその年は最後の春。「二度とやってこない春」なのである。

「春は二度とこない」と絶望的に綴った最初の歌詞が、より強く大塩平八郎の人となりと死生観を喚起させていると私は思う。人生の儚さを聴き手に訴えている点で、個人的にはこちらを好む。
 ただ、この曲の大きな魅力のひとつである「叙情性」の面でとらえるとなると、現状の歌詞のほうが優れているかもしれない。「広く大衆の支持を得る」という視点から、こちらが残ったのだろうか。

 2番の歌詞でもうひとつ大きく違っているのは、現在の歌詞にある「めぐる思い出」が古い歌詞には一切登場せず、代りに「ある鳥」が登場すること。
 その鳥とは歌うことを忘れてしまった鳥で、2番のラストにある「影法師」のことを、「だから歌うことができないのです」と結んでいる。

 なぜ鳥が消えてしまったのかは、私には分からない。20代の頃、この部分を歌うのがとても好きだった。「歌を忘れた鳥」に、自分自身を重ねあわせていたような気がする。
 もしかするとその「歌」とは、大塩平八郎が現世に生きる我々に投げかけた、大いなるメッセージだったのではないか。「歌うこと、そして叫ぶことを忘れてはいけないよ…」と。
ラストが「影法師」で終わるのは新旧どちらも同じだが、現在の歌詞では「歌を忘れた」のは影法師ということになっていて、古い歌詞よりもメッセージとしての輪郭が薄れている印象がする。
「影法師」はあの世へ自ら進んで旅立った大塩平八郎の魂のはずで、古い歌詞ではそう受け取れる。そして「鳥」は、一見平和そうな現世に安閑として生き残る聴き手としての私たちだ。
 明解なメッセージ性を薄め、叙情性を重んじるという選択肢が、ここでも働いたのだろうか。

 ただ、メッセージ性を薄めたことで歌としてのナゾはより深まり、曲の魅力は増したとも考えられる。聴き手の心に訴える獏とした無常観は、現状の歌詞でも全く損なわれていず、そこが長くこの歌が支持されている大きな理由のひとつに違いない。
 歌が聴き手の琴線を強く揺さぶり、時に涙を流させるわけは、歌の背後に漂うものに聴き手が直感的にふれるからだろう。
 大塩平八郎の命日は、新暦の5月1日。もうまもなくだ。週末に実施されるフォーク居酒屋での定例ライブで、この「消えた面影橋から」を、35年ぶりに人前で歌ってみようと思っている。時期的にも、いま歌うのが最も相応しい。
 大塩平八郎が我々に遺そうとした何かが、もしかすると見えてくるかもしれない。歌ってみれば分かる。