5日前、長男の家に学習机の補修パーツをセットしに行った折、机上に不思議な工作が置いてあった。
二つ折りにしたダンボールがあり、下の段には台形に切り取ったプラスチック板が整然と並んでいる。上の段には絵が描かれていた。聞けば1年生になったばかりの孫娘が、廃材で作ったノートパソコンなのだという。
ゴミ箱に捨ててあったジョイントマットの切れ端を目ざとく見つけ、拾い上げてハサミで切り抜いてマーカーで着色。手頃なダンボールと組み合わせ、一気に作り上げたという。親は一切関わっていない。
タブレットPCは父親と共用でときどき使っているが、キーボードのついたノーパソは大人専用で、まださわらせてもらえない。タッチ操作とはひと味違うキーボードに、憧れがあったのだろうか。
理由はともかく、お手本なしで独自に作り上げたにしては出来がいい。不思議なことにキーに文字らしきものは一切なく、すべて何かしらのマークか絵である。昆虫や動物、キャラクターらしきものもあり、カラフルで独創性に富んでいる。
オリジナル性と同時に「欲しい物を自分で作ってしまう」という心意気が気に入った。 私が孫娘と同じくらいの年だったころ、祭りの屋台でオモチャのピストルが売っていて、欲しくてたまらなくなった。買えるだけのお小遣いは持っていたが、なにか買うときは親の許可が絶対条件だった。
恐る恐るお伺いをたてると、即座に却下。ピストルなどという暴力的なオモチャは一切買ってはならぬ、という厳しい教育方針である。
絶対に譲歩しない親だったので、割と簡単にあきらめた私。しかし、(ならば自分で作ってやるわい)と、家にためてあったキャラメルや和菓子の箱をひねくり回し、世界にひとつしかない「ピストル(もどき)」を自分で作り上げてしまった。
もちろん屋台のピストルのように玉はでないし、音も出ない。しかし、思いついて構想を練り、独自のピストルを作る過程そのものに、私は充分に満足していた。
当時の満足感はその後も途切れることなく育ち、いまに至っていると思う。「三つ子の魂百まで」なのである。
孫娘の作品に、幼き日の自分の思いが重なった。もし何かがひっそりと受け継がれているのだとしたら、これに勝る喜びはない。